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本と羊をめぐる冒険~本と羊が出来るまでとこれから。~その1

本屋になるつもりなんて微塵もなかったグラフィックデザイナー時代。

1983年4月。18歳で大分から上京し、東京のデザイン専門学校商業デザイン科に入学。サボリがちで課題も適当にこなしていた結果、ギリギリの成績で卒業した劣等生の僕が、銀座一丁目の裏通りにあった日本屈指の大手デザイン会社に入社したのは1985年4月。世はバブル景気直前とはいえ、経済は好調で、どこも人手不足の状況。小さな新聞広告の募集記事を見つけて、それまで数社のデザイナー募集の面接を落ちまくっていた僕は、1年間はバイト生活を覚悟して、これが最後だと思い、ダメ元で履歴書と入社への懇願の手紙を便箋10枚に書き綴り、祈るように送った。その二週間後、当時の制作局長から連絡を受け、生まれて初めての銀座へ。毎年、芸大や美大のエリート大学生が数人しか採用されないその会社も人手不足だったらしく、面接で作品を見た制作局長が「普通なら全然ダメだけど、来週から三ヶ月の短期契約で来て下さい」と拍子抜けするぐらいにすんなり入社させてくれた。今思えば、時代に救われたような気がする。そこからアシスタントデザイナーとしての修業が始まる。いろんなディレクターの元、様々なクライアントのカタログやポスター、広告等々の仕事をこなし続け、いつしか短期契約も三ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ、気づけば一年が過ぎていた。デザイナーに昇格した僕は、正社員のデザイナーとして10年在籍することが出来た。

その後デザイン会社に転職、4年半で退社した後、1999年10月、妻と二人でフランス・パリへ半年間の語学留学生活のために日本を離れた。半年間とはいえ、異国での生活は当初から僕には辛いことが多く、何度も帰国を考えたが、いろんな国の友人が出来、楽しい事も増えていった。その中で様々な文化の違い、人生観の違いを体験出来た事は貴重な経験だったと今でも思い出す。特に2000年の正月をパリで過ごせたことは、記憶の中に鮮明に残っている。日本に帰国した僕は2000年後半から6年間フリーのデザイナーとして仕事をしていた。でも自分の営業能力に限界を感じ、2006年末に再びデザイン会社へ再々就職した。有名自動車メーカーのチラシやカタログのデザイン制作を担当し、連日深夜まで作業に追われ、自宅と会社の行き帰りの日々に疲弊し、惰性的な毎日を送っていた。経済的な安定を考えれば、サラリーマンとしての生活を放棄することが出来ずにいたが、4年後、友人に誘われ彼の勤務する会社に転職。新しい仕事に専念するも職場の体質に耐えられず、数ヶ月で退社。年齢も40代後半にさしかかり、条件の良いデザイン会社など入れるわけでもなく、ブラック企業と言われるような薄給で過酷な勤務時間のデザイン会社にやむなく勤務することになる。このまま、機械のようにただただ収入のために働くしかないと諦めていた2ヶ月後に、以前のデザイン会社の同僚から、ある大手広告代理店がデザイナーを募集していると連絡があり、かつて担当していたクライアントの仕事ということもあり、これが本当に最後のチャンスだと思い、面接〜即採用となった。当時48歳、2012年7月。そこから6年間、連日多くのデザイン案件をこなし続けていた。入社した時は60歳まで勤め上げて退社し、残りの人生を生まれ育った九州で過ごし、第二の人生を送ることだけを考えていた・・・。

僕のデザイナー人生は、「運」だけでここまで来た気がする。大したセンスもスキルもない僕のクリエイターとしての人生は淡々と終わりに近づいている気がした。でも何か足りない足りない・・・自分の中でずっともやもやとしたものが消えずにいた。そして2018年6月に上司に退社の意向を告げる。年末まで後任が見つかるまではいてくれないかと言われたが、ダラダラと居続けると、「ある決意」が鈍りそうで、9月末に退社をした。この日でとりあえず33年に及ぶデザイナーという肩書をひとまず下ろして、何者でもない自分に戻った。午後の太陽が照りつける中、振り返ることもなく、感傷にひたる事もなく、晴々とした気持ちで会社員人生に別れを告げた。まだ暑い秋の入口だった。53歳。もう後戻りは出来ない。僕は、本屋になるために動き出した。

なぜどこでどの時点で本屋になろうと考えたのか。少し時間を戻して整理してみようと思う。「ある決意」が、退社を決める2〜3年前からぼんやりと、しかし次第に明確となり、自分を新しい道へと向かわせることになった。その前にそもそも大きな疑問が40代の頃から心のどこかにあった。デザイナーとしてのある疑問が。長く続くこの疑問を抱えながら、それでも目の前の仕事に集中し、クライアントの期待に応える日々に満足感もあったが、何か心の中にいつも釈然としない虚無感を抱え続けていた。(続)

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