見出し画像

レッジョ・エミリアのような教育実践が日本で生まれるか考察する(1)

こんにちは~honaです!

さて最近、ふたたびレッジョ・エミリアについて、書籍を読んで考察を深めています。

主な参考文献はこちらの2冊^^
他にも都度Web検索などしています。

『レッジョ・エミリアと対話しながら』

『発達156: なぜいまレッジョ・エミリアなのか』


なぜ、レッジョ・エミリアの教育方法が、レッジョという地で生まれたのか


この事を考察することが、なぜ日本で同様の動きが生まれないのか、そして今後生み育てていくためにどうしたらいいのか、という事に繋がると考えています。

私が文献を読んで考えたこと、大きな要素は、やはり先導者のローリス・マラグッツィが存在したことだと思いました。
そして彼を支え、彼の価値観を分かち合う優秀な仲間たちがいたことも。

さらには、イタリアという国の市民性・気質があるのではないかとも思いました。
これは日本人の国民性との個人的な比較ですが、日本では協調性を重んじ、同調圧力が強いイメージがあります。一方でイタリアでは、自己主張をしっかりするして、自分の意見を相手に伝えると言う性質があるそうです(欧米ではそうした性質が一般的なような気がしますが)。

自分が「やろう」としっかり意見を持って、相手に伝えて、実行していくという市民の性質が、戦火の後に廃墟から学校を市民の手で作り上げたと言うエピソードにもつながっているのではないでしょうか。

加えて、おそらくその街の規模や環境も、大きな要素のひとつとなりえるだろうと思っています。
アメリカの心理学者ジェローム・ブルーナーさんは、すっかりレッジョという市に惚れ込んでらっしゃたそうですが、そんな彼がレッジョとそこにある学校について、以下のように述べているそうです。

海外からの著名なビジターで、すっかりこの市に惚れ込んで1998年にはついには名誉市民の称号まで授与されてしまったアメリカの心理学者ジェローム・ブルーナーは、母体である街の有り様を理解しないとこの市の学校を理解することはできないだろうと弁じている。
彼によると「市は迷子になるほど大きくはなく、窒息するほど小さくもなく、想像力、エネルギー、コミュニティー精神を培うにはうってつけの規模である。レッジョに入ると、もう今では稀にしか接することのできない市民間の尊敬を表す挨拶に出会うことも少なくない」(ブルーナ、2004)と。

ある地域がどういった環境なのかで豊かさがある程度決まってしまうという考え方がありますが、それと同様で、やはり新たな教育風土が根付くのに丁度よい規模・環境がもともと整っていた、ということが言えるのではないかと考えます。

日本で、新たな教育実践が生まれるには


では日本でレッジョ・エミリア教育のような素晴らしい幼児教育実践が行われるためには、どうしたらいいのか。ということも考えていきます。

まず1つめに、ジェローム・ブルーナーさんがおっしゃっていたように、街の規模、そして街の環境自体が重要な要素であるような気がします。

狭すぎず、広すぎず。狭すぎても、窮屈さや息苦しさを感じて外の世界に出たくなってしまう。広すぎても、どんな素晴らしい思想であってもなかなかマジョリティーになることが難しい。

そのちょうどいい大きさの街に、素晴らしい先導者とその仲間たちがいたこと。さらにそれを支える、自主性や主体性を持った市民の方々がいたこと。
こうした要素がうまく重なり合って、レッジョ・エミリアの教育実践がここまで生き続けているのではないかと考えました。

そう考えていくと、今の日本において同様のことを期待するのであれば、まずは一つの街や市で、実験のような形で取り入れていくのが一つの手かと。日本全体だと規模が大きすぎて、結局政治や経済に傾いたルールが敷かれてしまう恐れが高いと思います。

ここで2つめの重要な要素として、その実験=プロジェクトを行う街において、すべての参加者=教師たちがリーダーシップを発揮し、自発性を持ってプロジェクトに臨む事です。

というのも、レッジョ・エミリアでは、教師の役割がかなり重要視されています。
マラグッツィさんは、教師の仕事は、戦略的な知性と手腕の冴えによって特徴づけられなければならないと考え、常々そうした教師たちへ甚大な敬意を払っていたそうです。
マラグッツィさんは、口癖のように学校の教職員を前に、このように語りかけていたそうです。

「学校がたんなる教育サービスの供与機関となるならば、どんなにすぐれたサービスがそこで提供されようと、その価値は疑わしいものになる。」

レッジョ・エミリアにおいて教師の仕事はどういうものかと言うことを、参考文献では具体的に以下のように述べられていました。

教師の仕事は何かと言えば、それは子供たちの好奇心を刺激し、理論と探求を励ますような環境を作り出すことでしょう。子供たちが心を許して気持ちよく学習に参加できること、探求意欲をかき立てられ、自分の感じ方や思考のプロセスが丁寧に汲み取られていると思えること、子供がそんな気持ちになれる条件を作り出すことが教師である者の役割でしょう。
(中略)
どうやったら教育プロジェクトをもっともっと面白く展開できるか、そんな支援を絶やさないことも教師の、あるいは教師たちの集団の、役どころです。これは教師の仕事を特徴づけている他のいろいろな側面とも連動しています。聞くこと、観察、ドキュメンテーション、解釈などです。
私たちの学校イメージをメタファーで表すとしたら、建設の現場とか、常設の実験室あたりではないでしょうか。子供たちと教師の探求の呼吸がぴったりとあって、常に何かが構築されていく、そんな工事の現場です。

現在の日本でよく見かけるような、現場を知らない政治家や官僚が決定した学習指導要領の上にカリキュラムが作られ毎日の時間割が決定され、国が決めた教科書をもとに教師が授業を行うような学習ではなく、目の前の子ども達と教師との日々の実践から、教師が子どもと共に教育を組み立て、理論として汲み上げていくというプロセスを繰り返していく事が、子どもの好奇心を、自発性を、ひいては能力を伸ばしていくのではないか。と、考えさせられました。(少々強めな発言で気分を害されたら申し訳ありません)

そのためには、きっと教師にはこれまでよりも、教師自ら探求すること、教師自ら考え実践することを強く求められると思います。これまでは与えられた「理論」に基づいた授業をすればよかったけれど、新たなプロジェクトでは「理論」は目の前の「実践」から作られるから、教師と子ども達で作っていく。

もちろんレッジョ・エミリアをそのまま実践するわけではありませんので全部を真似ることはないので、これはあくまでも例えばの話ですが(;^_^A


なんだか纏まらなくなってきたので、ちょっと頭を冷やして整理して、続きはまた明日。
明日は、ではその教育実践をこれからの日本で行うために必要な環境とは?ということを掘り下げて考えてみようと思っています。


では今日はこのへんで。

お読みいただきありがとうございました!


hona



この記事が参加している募集

子どもの成長記録

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?