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小倉トーストと母 高橋久美子(作家、作詞家)

小説家、エッセイスト、画家、音楽家、研究者、俳優、伝統文化の担い手など、各界でご活躍中の多彩な方々を筆者に迎え「思い出の旅」や「旅の楽しさ・すばらしさ」についてご寄稿いただきます。笑いあり、共感あり、旅好き必読のエッセイ連載です。(ひととき2023年9月号「そして旅へ」より)

「名古屋でモーニングを食べてみたい」

 母が久々の旅先に選んだのは名古屋だった。しかも、お城とかひつまぶしとかではなく、小倉トーストを食べたいと。我が家は皆あんこが大好きで、昔から母はあずきを育て、ぜんざいやあんこ餅を作ってくれた。名古屋に行かずとも、それで十分だと思うが、そういうことではないのだろう。よーし、実家の愛媛から岡山へ出て、新幹線でモーニングを食べに行くぞ。母娘の旅が始まった。

「瀬戸大橋を渡るまでは家みたい」と母。方向に弱いくせに。車窓に瀬戸内海が広がる。この橋が完成したのは小学一年の四月十日、私の誕生日だった。船でなくても本州に行けるようになった。当時はぴんと来なかったが、大人達からすると革命だったろう。海を越えるとき、「行ってきます」という気持ちになる。

 名古屋駅に到着したのが午前十一時過ぎだったのでモーニングはどこも終わっていたが、調べてみると、一日中モーニングをやっている喫茶店「リヨン」を見つけた。昼でも夕方でもモーニングとは愉快だ。まずはあんこのホットサンドをいただく。移動に疲れた体に染みるあんこ、なかなか。

 翌朝は早起きして、スーツ姿の波に逆らうように評判の喫茶店を目指す。堀川を眺め「これ、名古屋城の外堀じゃろうか?」と母が立ち止まる。母との旅はこんなふうに、子どもと散歩しているようだ。ずっと専業主婦だった母にとって瀬戸大橋の向こうはまさに海外。東京に出た私には気づけない、新鮮な視点があった。しまった、のんびりしていたから行列ができているじゃないの。平日の朝から美味しいあんことコーヒーを求める人々は仲間に思えた。やっと店内に入り、念願の小倉トーストをいただく。

「美味しい。このあんこ手作りじゃね」観光地へ急ぐのでなく、モーニングセットで朝をゆったり過ごす。母とこんな旅をするなんて大人になったなと思った。

 名古屋の食文化に母は驚いてばかりだ。「うなぎをお茶漬けにするなんてもったいないわ〜」と言ったり、食べなくていいと言っていた手羽先に「おいしい!」とはまったり、ビジュアルで恐れていた味噌煮込みうどんも完食。中でも、老舗喫茶「BONBON」のプリンは絶品で目を輝かせた。実際に来てみると、名古屋めしはどれもスタミナのつく力飯で、私達旅人にも元気をくれたのだった。

 三日目の朝、ゆっくり起床し、また堀川を渡って、モーニングを食べに行った。きなこバタートーストも最高だった。ホテル周辺ならもう地図なしでも歩けた。「名古屋って都会なのに東京ほど人が多くなくて、歩く速度も私達と同じくらい」と母。いや、母よりは速いぞ。でも確かに、朝を大切に過ごす文化が街をゆったりさせているのかもしれない。

 日本で初めて作られたという電波塔に登り、今日歩いた辺りを望遠鏡で眺めた。もう懐かしかった。街に慣れた頃に旅は終わる。名残惜しそうな母に、「また新幹線でモーニング食べに来よう」と言った。

文=高橋久美子 イラストレーション=駿高泰子

高橋久美子(たかはし くみこ)
作家、作詞家。1982年、愛媛県生まれ。2011年までロックバンド「チャットモンチー」のドラム、作詞家として活動。その後、小説やエッセイの執筆、アーティストへの歌詞提供など幅広く創作活動を行う。旅エッセイ集『旅を栖とす』(KADOKAWA)、小説『ぐるり』(筑摩書房)など著書多数

出典:ひととき2023年9月号

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