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同じ本を集める友人

 本を集め続けていると、誤って同じ本を購入してしまうことがある。
 周囲を見廻しても、「ミスった、同じ本を2冊買ってしまった……」と嘆いている人をよく見かける。
 私自身、同じ本を買ってしまうことは少ないものの、すでに自宅にある本の新装版や復刻版を、それとは知らずに購入して、少し落ち込むことはある。とはいえ、全く同じ本ではないのだから、精神的なダメージは微々たるものだ。

 ところで、皆さんの周りには、あえて同じ本を集めている友人・知人はいるだろうか。「誤って」ではなくて「あえて」である。
 私には一人、該当する友人がいる。その友人は、以前noteの別の記事でも紹介したことがある、本を読むときは必ず線を引く友人である。
彼は主に三冊の本を、古本屋や古本まつりで見つけ次第購入していた。どれも、常に三〜四冊のストックがあった。
 私は友人の自宅に初めて訪れた際、彼が特定の本を数部所有していることに気付いた。「同じ本をなんで集めてるの?」とその場で訊くのもよかったが、自分で推理してみるのも面白いと思い、あえて訊ねることはしなかった。
 最初、本に線を引くか引かないかでちょっとした言い争いになったこともあり、「もしや、線を引かない保存用なのでは?」と疑ったりもした。しかし、それであればストックは1冊あればいいわけで、同じ本を3冊以上持つ必要はない。その他に、「一種のフェティシズム」の可能性を考えてみたりもしたが、これでは埒があかないと思い、詮索するのをやめてしまった。
 正解を提示されたのは、ある講義の終了後、友人がある知人と「よっおつかれ!」と挨拶を交わしたときである。
 「あっそういえば、この前言ってた本だけど」と言い、鞄から見覚えのある本を取り出し、「これあげるから読んでみて」と知人に手渡した。
「ほんとに? ありがとう」と受け取る知人の顔を、満足そうに眺める友人がそこにいた。
 「なるほど、そういうことだったのか」と私は唸る。友人が同じ本を集めていたのは、自身のお勧め本をプレゼントするためだったのである。

 「同じ本を集める」という行為自体は、随筆やエッセイを読んでいると時折目にする。
 例えば、小説家・尾崎一雄の作品集『新編 閑な老人』(中公文庫)に収録の随筆「古本回顧談」では、毎日古本街を彷徨いていた過去を振り返り、見つけ次第購入していた稀覯本を幾つか取り上げている。

「「転身の頌」は、二冊持っていた。この本の存在を知ったのは、同級生でやはり同人雑誌仲間の詩人、故村田春海によってである。私が朔太郎を持ち出したら、村田は耿之介を持ち出した。百部限定の初版「転身の頌」は、当時すでに入手困難であった。
 村田は、大学ノートに、この詩集を、彼独特の、丸味を帯びた美しい字で、全巻写して持っていた。(この本の再版本で、日夏氏が「筆写している人もあると聞いたのでーー」と書いているが、それは村田のことだ。)
 ある時、故片上伸先生が、この本を持って居られるのを知り、強引に「下さい」と言ってみた。しかし先生は、「あれは日夏君がわざわざ古本屋で捜して贈ってくれたものだから、やるわけにはいかない」と言われた。
 そのうち、先生はある事情で学校を辞め、ラトヴィアのリガへ発たれることになった。出発前「上げよう」と言って私に下さった。
 それから間もなく、戸塚のある古本屋の主人に、何気なく「転身の頌」の話をし、若しあったら定価で買う、と言うと、主人が本当ですか、と力んで、やがてどこかから持って来た。美しい本だったので五十銭余分にやったら、大いに喜んでいた。定価は二円五十銭だったと思う。
 それから間もなくその本屋へ行くと、主人が「あなたはヒドイ、あれは五円でよかった」と恨みごとを言った。
 この「転身の頌」二冊共、私は売り飛ばして了った。売っていいはずの本ではなかったのだが、えいッという気持で売ってしまった。」(尾崎一雄『新編 閑な老人』中公文庫、P231〜232)

 友人と違うのは、その稀覯本を知人・友人に譲ることはあるものの、その多くは酒代にするために売っ払ってしまったところである。こうなると、本に対する誠実さでいえば、尾崎一雄よりも友人の方が立派ということになる。
 このことを、一瞬友人に伝えてあげようかとも考えたが、調子にのる姿が頭に浮かぶので、黙っておくことにする。


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