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停酒

 この話、する相手を間違ってない? そういう経験が時々ある。

 11月1日から5日の間、百万遍知恩寺で開催されていた秋の古本まつりに、今年も参加した。
 私にとってこのイベントは、友人・知人との再会の場となっている。とくに示し合わせるわけでもなく、「もしかしたら会えるかも」と思っていたら、本当に会えてしまう。そんな独特な磁場を帯びた場所。
 今年も例に漏れず、複数の知人と顔を合わせた。その多くは歓迎すべきものだったが、そうでない場合ももちろんある。
 文庫の均一コーナーを漁っているときに、後ろから声をかけてきたのは、一時期交流のあった宗教史の先生。先方が飲みに誘ってきたら、丁重に断る、というのを繰り返していたら、関係が疎遠になった。彼のことはすっかり忘れていたので、「ああ、懐かしい」と素朴に思う。

 その素朴さを打ち消すように、彼の口から発せられたのが、「〇〇くん、久しぶりに飲みに行こう」という言葉。
 彼とは一度も飲みに行ったことはないから、久しぶりでも何でもない。知り合いであれば、とりあえず飲みに誘っているのだろうか。

「最近の若い子は、飲みに誘っても断るんだよ。付き合い悪いよね」

 この話、する相手を間違ってない? この言葉が、頭の中をぐるぐる回る。「この後、用事があるのですみません」。私は今回も、丁重に断りを入れた。

 上記の先生のように、飲みに行くのが当然、酒を飲まないと始まらない、と思っている人とは、私はうまく付き合えない。シンプルに交流するのが面倒になる。

「(志ん生)あなたがね、お酒を飲まないてえことは、わたしゃ大変嬉しいね。もう飲んじゃいけませんよ(笑)。
 (夢声)こりゃ驚いた。師匠が、そういう御意見とは気がつかなかったなァ。飲まないとは話せねえなんて、云われるだろうと思ってたんだが。
 (志ん生)だって、あなたが止したてのは、身体が何処か悪いからでげしょう。わたしもね、何処か悪かったら止しますね。ちゃんとそう決心をしてますよ。」
古今亭志ん生『志ん生芸談〈増補版〉』河出文庫、P120)

 引用したのは、五代目古今亭志ん生と徳川夢声の対談の一節。私が好きなやりとりの一つだ。
酒を飲む・飲まないは、個人の自由。一方的に自分の都合を押し付けて、酒飲みに付き合わせることはしない。

「(夢声)僕はね、パン・パン・パンと三度、胃潰瘍で入院した、そこへもってって今度、レントゲンでジャンと来たから、もうイケナイ、当分停酒と定めた。
 (志ん生)つまり禁酒でがしょう? 
 (夢声)いや、キン酒に非ずテイ酒だ。禁酒とあっては永久に飲めない。これは停酒だから即ち停電と同じこと。いつまた来るか分らないって訳だ。
 (志ん生)そりゃズルイよ、先生。」
古今亭志ん生『志ん生芸談〈増補版〉』河出文庫、P120〜121)

 志ん生の気遣いをよそに、夢声はあくまで「禁酒はしていない」と主張する。いまは「停酒」であって、時が来れば、また酒を嗜む。
 無理せず「停酒」を続ける無声の姿勢に対し、「わたしゃ残念ながら、まだそういう病気にならねえから」と言葉を投げて、黄金色の液体をグビリとやる志ん生の姿は、様になる。
 同じ酒飲みでも、ここまで違うか……。宗教史の先生の言動を思い出すと、溜息が止まない。



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