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将来

 子どもと話す機会があったとき、絶対に口にしないようにしていることがある。
 それは、「将来の夢は何?」という質問だ。
 子どもの方から、「私は将来〜」と話し出したら、真剣に聴く。ただこちらから、将来何になりたいか訊ねることはしない。
 なぜか。シンプルに、私が子どもの頃、この質問が大嫌いだったからだ。

 子ども時代の狭い行動範囲、未熟な知識量。その状況で将来の夢を確定してしまうことが、いかに危ういか。
 自分が本当になりたいものが、今見えている、知っているものの中にあるとは限らない。私の友人・知人の話を聴いていても、子ども時代は、とにかく目につく職業の中から、将来なりたいものを選んで、口にすることが多かったようだ(例:学校の先生)。
 彼らは大学生になってから、ようやくある職業の存在を知って、「これがやりたい」と芯から思えるものと出会えた。側から見れば、彼らは子ども時代に口にした将来の夢を叶えられていないことになる。だがそれは、大した問題ではない。結果的に満足のいく人生を歩めていれば、それがベストである。

 ……ただ、誰もがそういう結果オーライな人生を歩めるわけではない。子ども時代の夢、ある程度の年齢に達してから立てた目標、そのことごとくが残念な結果に終わる場合もある。

「人生のなんと多くの年月を
 夢みながら過ごしてきたことか
 わが過去のなんと多くが
 思い描いた未来を
 裏切る日びにすぎなかったことか
 心静かにいかなる理由もなく
 この川の辺にぼくは立つ
 空ろな川の流れは
 冷たく無表情に描く
 虚しく生きたわが日びを
 なんと望みの果し得ることのすくないことか
 願う甲斐のあるどんな願いがあろう
 幼い子の投げるボールは
 わが望みより高く飛び
 わが願いより遠く転がる」
フェルナンド・ペソア著、池上岑夫編訳『ポルトガルの海 増補版』彩流社、P24〜25)

 この世界に無数にいるであろう挫折者の心情を想うとき、思い出されるのが上記のペソアの詩
 幼い頃の私が、現在の私と顔を合わせたとしよう。そのあまりの生気の無さに、彼は絶望するかもしれない。何とか自分のお金だけで生活ができている。毎日自炊もし、洗濯も怠らない。この点は、すべてを親に依存していた彼にとっては、驚くべき事実だ。だがそうであっても、彼は将来私にはなりたがらないだろう。

 私は私自身に対して、それほど絶望しているわけではない。ただ一方、たいして期待もしていない。今を直向きに生きるだけ。そういう心境である。



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