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蔦的人間

「季語は、三百六十五日を輪切りにした、時間の切断面と結びついた言葉だ。「向日葵」が咲くあの夏、うちに「金魚」がやってきたあの夏、「海の家」の焼きそばが無性においしかったあの夏……。季語という記憶の通路を通って、一回きりの特別な瞬間が、十七音のうちに呼びこまれる。」
神野紗希『もう泣かない電気毛布は裏切らない』文春文庫、P26)

 一人暮らしを始めると気づくことだが、「季節」を味わうのは案外難しい。
 節分、七夕、クリスマスなど、「季節」を感じるタイミングは幾つもあるが、それらは総じて商業的なイベントと固く結びついている。
 実家暮らしのときは、私自身にさして関心が無くても、ほかの家族の誰かが働きかけて、自然と季節のイベントに参加することになった。
 ただ一人暮らしとなると、当然働きかける人はいなくなり、自分が動かなければ、目の前で時間だけが過ぎ去っていく。

 冒頭に引用したのは、俳人・神野紗希のエッセイ集からの一節。2019年に日本経済新聞社から刊行されたものが文庫化されていたので、既読であったが再読のために手に取った。
 本書の初読は、確か2019年の末か2020年の初めで、社会全体が巣篭もり生活に突入する直前にあたる。あらゆる季節のイベントが中止を余儀なくされる中、本書は、日常のあらゆる場面に「季節」が散りばめられていること、またそれを「季語」として捉えて、情感を詠いあげるのが「俳句」であること、を教えてくれた。おかげで、巣篭もり生活の中にあっても、かろうじて季節感を失わないですんだとも言える。

「人には誰しも、それを見つけるとつい、立ち止まって見つめてしまうものがある。私にとっては、それが蔦だ。生まれたばかりの蔦の葉は、やわらかくて絹のよう。触れると、ああ春が来たんだ、と指先が喜ぶ。青蔦に飲み込まれた空き家に強い風が吹いた瞬間、蔦の家がぶわっと巨きくなったような気がする、夏の夕べの心のざわざわも好きだ。」
「絡みつく相手がいないと生きられないのに、ひとたび抱きしめたらその相手を覆い尽くしてしまう。なんてむなしい性だろう。加減というものを知らず、相手を束縛したいという欲望だけが肥大化してゆく。蔦は、飽くなき寂しさの権化だ。そんな蔦に、こんなに心惹かれて立ち止まってしまう私も、不器用でエゴイスティックな、蔦的人間なのかもしれない。」
神野紗希『もう泣かない電気毛布は裏切らない』文春文庫、P60)

 日常の見方が変わったというのは、何も「季節」に関するものばかりではない。
 先に引いたのは、「蔦」にまつわる文章。私も蔦に覆われた空き家を目にすることはあるが、そこから感じ取るのは、せいぜい静的な不気味さばかりである。一方著者は、何かに依存しなければ生きられない上に、依存した相手を束縛してしまう、という不器用な性を「蔦」から読み取り、人間にも当てはまる性質として捉えている。

 この文章を読んでからは、目に入ってくる「蔦」が動的なものにうつり、ある種の「悲哀」すら感じられるようになった。
 「蔦」に心を揺すぶられる時が訪れるとは……今でも驚きである。


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