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追悼Marek Karewicz氏 ポーランドジャズ黄金時代を支えた天才フォトグラファー

音楽というジャンルは、写真やデザインと切っても切れない縁があるように思う。実際に音を聴いてからがすべてなのだけれど、そこにたどり着くまでにはヴィジュアルの要素が大きくものを言うからだ。

中でも、ジャズはアドリブ主体(最近はそうでもないけど、そういう時代が長かったのであえてこの説明をする)の音楽形態なので「現場」が最も価値が高い。広報用のスチル写真より、演奏中(現場)の熱気やジャズ特有の空気感が伝わるショットのほうに重点が置かれるという意味で、撮影するフォトグラファーの感性と技術がかなり重要な要素だったのではないだろうか。

例えば日本では、阿部克自、常盤武彦、中平穂積といったジャズ・フォトグラファーが有名だ。また、ブルーノート東京オフィシャルフォトグラファーの衣斐誠など40代の比較的若手の写真家も気を吐いている。

お知らせ
八戸ブックセンターで衣斐誠さんの写真展も含めた連動企画が行われます。6/30~7/31まで。夏の青森に避暑がてらいかがでしょうか。ちなみに、選書コーナーでは類家心平さん、大谷能生さん、デヴィッド・マシューズさん、伊藤ゴローさんらにまじって、わたしも選書しています
https://8book.jp/bookcenter/1584/

今も多くのジャズファンに愛され続けているアメリカの名門ジャズレーベル「ブルーノート」も、ドイツのベルリンから移住した写真家フランシス・ウルフの写真がその魅力のひとつだった。おそらく、多くのジャズファンが「ジャズと写真」という言葉を見た時に思い浮かべるのが彼の写真だと思うし、ジャズ写真とはこういうもの、という一つの基準として存在していると思う。

ブルーノートは(そしてこのレーベルが代表していた当時のアメリカのジャズは)、彼の写真なくしてその躍進はなかったと言ってもいいと思うし、ルディ・ヴァン・ゲルダーのエンジニアリング、リード・マイルズのデザインなど多様な才能に支えられており、音楽そのものの魅力だけではない複合芸術だった。

実は中欧のポーランドにも、フランシス・ウルフのような偉大なフォトグラファーがいた。そして、第二次世界大戦後、共産圏時代のこの国にも、ブルーノートを生み出したアメリカのような複合芸術的ジャズ・シーンがあったのだ。ジャズを資本主義の最先端国アメリカの専売特許のように捉えている方には、もうそのことだけて驚きかもしれない。

1950年代後半以降レコードのジャケット、ジャズフェスのポスター、雑誌の表紙にいたるまでおびただしい数のジャズ写真を撮り続け、芸術大国ポーランドの一時代を代表するクリエイターになったその写真家は、

Marek Kawewicz マレク・カレヴィチ

という。そのカレヴィチ氏が、つい先日6/22に80歳で亡くなった。Facebookではポーランドの音楽関係者たちの追悼コメントが相次いでいるが、日本のメディアで彼の偉大な功績やすばらしい仲間たちについて触れられることはおそらくないだろうから、追悼の意味を込めて、ここにご紹介したい。

ポーランドのジャズと言うと、一も二もなくピアニスト、作曲家、映画音楽家のKrzysztof Komeda クシシュトフ・コメダだろう。彼なくして現在のポーランドジャズシーンがあったのかどうか。それほどの偉大な存在なのだが、そのコメダもまた、カレヴィチに支えられていた。現在私たちが見ることができるコメダのヴィジュアルイメージのほぼ全てはカレヴィチの手によるものだ。

コメダについては、先日公開したこちら↓の記事もご参照ください。

「東欧のカインド・オブ・ブルー」と呼ばれる100年に一枚レベルのジャズの大傑作『Astigmatic』は、カレヴィチの写真と、ジューダス・プリーストやザ・クラッシュのアルバムジャケットも手がけたRosław Szaybo ロスワフ・シャイボのデザインというゴールデンコンビによるジャケット。ちなみにこのアルバム、旧東ドイツのGünter Lenz、スウェーデンのRune Carlssonという外国人もメンバーに加わった、多国籍作品なのもミソ。

ジャケット・デザインの素材としてだけでなく、ドキュメントとしてのコメダの写真も、ほとんどがカレヴィチによるもの。ポーランドでは現在、何冊ものコメダ研究本が出版されているが、そこで使用されている写真も彼の作品ばかりなので、後世にとっての偉大さは、これからもっともっと大きくなっていくものと思われる。

コメダが活躍した1950年代後半から1969年の彼の死を経て、1980年代前半くらいまでのポーランドのジャズは、純リスナーであるジャズ・ファンだけでなく、DJにとっても魅力的な宝の山だった。それは国営レーベルMUZAが発売していた全76枚のシリーズPolish Jazzがあったから。

スウィング・ジャズからフュージョン、ヴォーカルものまで、ミクスチャーでハイセンス、そしてほのかな異国情緒を駆り立てるポーランドのジャズの魅力がギュギュっと詰まったシリーズとなっている。先ほどご紹介したコメダの『Astigmatic』もこのシリーズのうち一枚だ。ポーランドのブルーノートとも言うべきこのシリーズでも、カレヴィチの写真がふんだんに使われている。

コメダやカレヴィチが若きクリエイターとして活躍した戦後のポーランド社会は、ジャズと映画を通じて、多くの才能ある若者たちが「メディア・ミックス」的なコミュニティを形成していた。ジャズ・プレイヤー、写真家、画家、デザイナー、俳優、映画監督、現代音楽のコンポーザーなどなど。

先に紹介したロスワフ・シャイボとのコラボなどに象徴されるように、レコードのジャケットは、音のクリエイターと、ヴィジュアルのクリエイターたちの大切なコラボの舞台となっていた。映画もまた、同様だ。

こちらもカレヴィチ&シャイボの黄金コンビの作品↓

画家のRafał Olbiński ラファウ・オルビンスキもレコードのジャケットでその腕を振るった巨匠のひとり。↓

そもそも、コメダを戦後ジャズ黎明期の最前線に引きずり出した張本人で、サックス奏者、映画音楽家のJerzy Duduś Matuszkiewicz イェジ・ドゥドゥシ・マトゥシュキェヴィチなど、アンジェイ・ワイダロマン・ポランスキ、イェジ・スコリモフスキ、クシシュトフ・キェシロフスキらを輩出したウッチ国立映画大学で映画を学んでいた「越境の人」なのだ。

彼はJerzy Kawalerowicz イェジ・カヴァレロヴィチの初期の傑作映画『Cień 影』で撮影技師を担当している他、ミュージシャン以外の役割でいくつもの映画に関わっている。また、カヴァレロヴィチ映画ではジャズが効果的に使われた『Pociąg 夜行列車』が、ポーランドのジャズと映画の蜜月の代表例として有名だ。同作にはコメダのライヴァルかつ友人のミュージシャンたちが多数関わっている。

さて、そんなドゥドゥシが学生時代に結成したグループMelomani メロマニ(バンド名は他の人が結成していたバンドから引き継いだ)は本格的なスウィング・ジャズで大学生を中心に人気を博し、やがて一大ジャズムーヴメント爆発のきっかけとなる1956年のフェスSopot Jazz Festival開催へとつながっていく。コメダはこのメロマニに参加して、その才能を知られるところとなった。

そして、のちに世界の巨匠クラスにのぼりつめる映画監督スコリモフスキ(当時はまだ詩人だった)とコメダが実際にはじめて言葉をかわしたのが、Sopot Jazz Festivalなのだ。コメダ以外の才能あるメロマニ卒業生たちも映画音楽を制作しはじめた。その波に、ドゥドゥシ本人も乗っかり、彼もジャズ出身の映画音楽家として確固とした地位を築いた。こうして、たくさんの若きクリエイターたちがジャズと映画を介してつながっていく。

何世代かに渡る、複数のポーランド人ミュージシャンや音楽関係者にインタヴューして知ったのだが、当時こうしたコミュニティに属したクリエイターたちは、シェアハウスのような形で生活を共にしていることが多かったらしい。そうした輪の中心に、コメダやカレヴィチがいた。

60年代に入ると、そこにロックのミュージシャンなども入ってくる。激唱と呼ぶにふさわしいシャウト系ヴォーカルとプログレッシヴなサウンドで日本のファンにも人気のNiemenBreakoutCzerwone gitaryなど多くのロック系ミュージシャンが、カレヴィチの撮影で雑誌や新聞などのメディアを飾った。

ちなみに、Niemenのバンドの最初期のベーシストだったPaweł Brodowski パヴェウ・ブロドフスキ氏は、現在半世紀以上の歴史を誇るジャズ雑誌Jazz Forumの編集長を務めている。そんなつながりもある。

ジャズだけでなく、ロックしばりでも、カレヴィチの写真を使用したアルバムを使っていくらでも名曲コンピレーションが編める。実際に、そういうコンセプトのコンピがポーランドで作られていた。

カレヴィチは、国内のミュージシャンたちの広告塔であったと同時に、前述のSopot Jazz Festivalの後継的フェスJazz Jamboreeなどで積極的に招聘された海外のミュージシャンを、その迫力ある写真でポーランド国民に紹介する役割も果たした。ありとあらゆるところに、彼はいた。

ポーランドでは、現在もメディアミックス的な人脈の広がり方が盛んだが、その源流には戦後のコメダやシャイボ、カレヴィチらのコミュニティがある。

日本のファンにも人気のピアニスト、スワヴェク・ヤスクウケなどはそうした文化を引き継ぐべく、一作ごとにヴィジュアル・イメージやエンジニアも交えたチームを作って、立体的にアルバムをプロデュースしているそうだ。触覚を刺激する字のデザインなど、彼のアルバムは実際に手で触れないとその魅力がわからないものが多い。少なくとも彼の中ではフィジカルは「総合芸術」で、その趣向の向こうには、コメダの時代への強いリスペクトがある。

まさに、一つの国の文化を代表するような偉大なクリエイターが、またひとり亡くなった。ここで少し個人的な思い出を書かせていただく。昨年4月にポーランド南西部の大都市ヴロツワフで行われるフェスJazz nad Odrąを取材した時のこと。

開催中のある日、メインのホールに車椅子の老人男性がいて、ちょうど私が目の前に立ってしまったのに気づいた。彼に見えやすいようにそこをどいた。すると車椅子を押していた髭の男性と老人が身振りと軽いポーランド語で「えっ、いいの? そんなにどくことはないのに。どうもありがとう」とお礼を言ってくださった。

ところが、様子を見ているとミュージシャンや音楽関係者がその車椅子の老人にどんどん挨拶をしていく。ビビビッと衝撃が私の中を走った。聞こえてくるポラ語の会話、年齢やお顔から「あの偉大なカレヴィチさん」だとわかったからだ。先ほどのお礼の様子から、彼の温かい人柄が伝わったし、多くの人に愛される方のように見えた。

しかし、何となくさらに話しかける勇気が持てず、結局そのままになってしまった。取材すべき方がどんどん亡くなっていく。でも、たった一瞬の会話は、私の中の大切な記憶として残った。

そのフェスでは、ライヴと並行して会場内でジャズ写真の国際コンペの上位入賞作の展示も開催していた。かつてフォトグラファーとして一時代を築いたカレヴィチさんは、どんな思いでそれらの作品を眺めたのだろうか。

マレク・カレヴィチさん。たった一瞬しか言葉を交わすことができませんでしたが、お会いできて光栄でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。あなたの残したものは、永遠に語り継がれます。私たちに豊かな時間をありがとうございます。どうぞ安らかにお眠りください。

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