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愛の正体、美しさの言語化。(最果タヒ『落雷はすべてキス』を読んで)

1986年生まれの若き詩人。2004年にインターネット上で詩作を披露し、今に至るまでたくさんの詩を生み出している著者の最新詩集。

落雷がキスだなんて。雷って怖いものだと思っていたけれど、触れてみると甘美なものなのかもしれない、確かにね。

『落雷はすべてキス』
(著者:最果タヒ、新潮社、2024年)

──

最果さんの詩は、模写したくなる。

ノートに、その美しい言葉をボールペンで書く。「美しい」というのは最果さんにとって褒め言葉だろうか。分からないけれど、言葉というか、僕の中からすっかり消えてしまった美しい心象風景のようなものが蘇ってくる感覚があるのだ。

「川底の詩」には、「悲しみの深さで証明されるような愛なんてないのに、全ての川が枯れてしまったような痛みがある。」という言葉が綴られている。そうなんだよね、でもなぜ、悲しみの深さで愛を証明しようとするのだろう。そんな不思議を、もがきを、最果さんはちゃんと寄り添っているような気がする。

美しさについて、最果さんは「あとがき」で以下のように綴っている。

幸せになってほしい、とかはむずかしい、具体的なことは何もわからないし、あなたは何が幸せなのか、私にはわからないから。でも世界はずっとずっと美しいと思う。その美しさが私やあなたと少しも関係がないまま遠くに佇んでいることはとても多いけど、それらが何かを埋め合わせてくれるわけでもないのかもしれないけど、でも、そんな時でも頭上には秋の空気が流れていたり、冬の切れ端がカーテンの端を揺らす。

(最果タヒ(2024)『落雷はすべてキス』新潮社、P183より引用)

言われてみて、確かにそう思う。

他人の幸せなんて、分からない。そもそも自分の幸せの在処だって分からないのだから。でも願うのは、「共有」というと陳腐だけど、同じ風景を見たときに感じる、似たような認識なのではないか。

「言語化」という言葉もまた陳腐だけれど、最果さんが言葉にしたからこそ気付けたことが、この詩集にはたくさん詰まっていた。心の奥底につまっていたものが、溢れ出るような感覚。

それこそ、詩が持つ、唯一無二の力なのだろう。

──

そういえば、僕は昔、詩を書いていた。

正確に言えば「詞」である。バンドを組む予定もなかったのに、それほど歌が上手いわけでもなかったのに、「もしかしたらミュージシャンになれるんじゃないか」って思って、ひたすらノートに(あるいは携帯電話のメモ帳に)自作の歌詞を綴っていた。

「好きこそ物の上手なれ」とは違うけれど、書いていれば時々、グッとくるようなテキストと出会えるものだ。

今では歌詞を綴ることはないけれど、改めて身体的な営みとして、詞を(あるいは詩を)書いてみようかな。

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