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あやとり家族二十五

兄もまた犠牲者。甘やかせられて育てられたのは、父の夢のためだった。

お兄ちゃんは長男として産まれた。昭和の時代は長男が家を継ぐと言うのが当たり前で、少しでも立派にという考えが世間一般的。

父もその一般的な考えのスペシャリスト。
自分が母子家庭で育ち、恥ずかしい思いもしたのだろう。自分の長男であるお兄ちゃんにはそういう思いをさせたくないという気持ちがあった。

兄は小さい頃から、好きなものや欲しいものは全て買い与えられた。
どこかに行きたいと言えば兄だけ連れて行った。父が行けない時は父の友人知人を使い、とにかくあちこち出掛けていた。

「私も行きたい」と言ったことも何度もあるが”今日はお兄ちゃんだけ”と母に同じ説明をされる。

目の前で、これから楽しいところに行くんだなと思うと羨ましかった。

だがこの甘やかしは、これから始めようとしている祖母と父の企みだった。

小学校4年生になってすぐ、兄を塾に通わせ始めた。学習塾と英会話の塾で、週5日くらいうまってしまう。学校が終わると家に帰るなりおやつを食べさせ、駅まで祖母が一緒に着いて行き帰りも必ず迎えに行く。

最初の頃は言いなりになっていた兄だったが、徐々に友達と遊ぶ時間がなくなっていき「友達と遊びたい」と訴えても、塾が優先と虐げられていた。

”お兄ちゃんかわいそう”と私は思った。

祖母は父の言うことを聞いていただけ、言われた通りのことを忠実に実行するのみ。父の目論みは私立の学校、大学まで卒業させ自分の会社の跡取りにすること。そしてこの家を守らせることだった。

兄は言っても聞いてもらえない状況にも関わらず塾に通い詰めた。なぜなら交換条件を出されていたからだ。「〇〇点以上とったら遊びに行っていい」とか「〇〇できたら明日は塾を休んでいい」とか。

子どもだからそれは必死に頑張るよな。結局中学校を受験させられた。
本人は地元の友達と同じ中学校に行きたいとずっと言っていたが、「受けるだけだから」と言われ見事に合格。それも偏差値70以上の新学校。

父はどうにかしてその中学校へ行かせたかったが、兄は譲らなかった。
兄は地頭が良かったから、余計に行かせたくなる父。
押し問答が続き、結局父が折れた。またここにきて交換条件を提案して。

それは偏差値の高い高校に入学して大学を卒業することだった。

兄はその条件をのみ、小学校からの友達と同じ中学校へ通い始めた。

そこから兄の反抗期は始まった。遊びたかったのに遊べなかった小学校時代。
それを払拭するかのように遊び始めた。ただ頭は良かったから勉強しなくてもトップ10には入ってしまうから親も文句が言えない。

そんな兄にも怒りが溜まっていた。反抗期中は今までシスコンと言われるくらい妹たち、つまりすずちゃんとももちゃんを溺愛していたのに一変。
ことあるごとに文句をつけ始め、特に私にはその怒りをぶつけてきた。

とにかく暴力的になり、投げれたり倒されたりした。流石に女相手に殴るのはまずいと思ったのか(結果的に十数年後祖母と母に手を挙げたが)その程度で済んだが後から兄に聞くと「切れた瞬間のことは覚えていない」という。

私は怖くなって母に「お兄ちゃん変だよ、病院に連れて行って」と何度も言ったが聞いてもらえなかった。

この状況がわかっていても何も言えない祖母と母。理由は違えど父には逆らえない何かがあった。2人とも見て見ないふり。

それでも”夕飯はもんなで仲良く食べましょう”みたいな一般的なことはしたがる。私はこの家が嘘くさい家庭で本当に嫌だった。

この時の兄の衝動的な怒りは、この機能不全家族が招いたことだと思っている。

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