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死について考える。「母を看取った時の随想記」。私は遺体の隣でオアシスを聴いていた。

今日も死ぬ瞬間のことを何度も想像して、
その度に心臓がギュッとなって、呼吸が浅くなって、職場で、あー誰か助けて…と心の中で呟いていた。そわそわそわそわするのである。

ここ最近ずっとそんな感じだ。

人生も折返しを過ぎた年齢になってきたからだろうか。40を過ぎると体の老化現象が顕在化してきて不安に駆られる。白髪を抜いては、あー、もう若くないんだなぁ…、と実感する。
悲しいが受け入れるしかない。
みんなが通る道なのだ。


生きることより、死ぬ時のことを考える比重が大きいのは、この年代以上の人達はみんなそうなのだろうか…。いや、たぶん根暗な私の性格故だろう…。


自分が死ぬ時、どこで死ぬんだろう。
どんな気持ちで死ぬんだろう。
葬儀はどんな感じだろう。
そもそも何歳で死ぬんだろう。
想像したところで何にも分からない…。


私は33歳の時に母親を癌で亡くしている。
末期膵臓癌が見つかって、
余命3ヶ月と宣告され、
ほぼその通り3ヶ月半くらいで逝ってしまった。
享年74歳だった。

母親が3ヶ月後に死ぬ。
これはやっぱり相当な衝撃だった。
今ここで隣に居て、会話してるこの人が、
本当にこの世界から居なくなるの?…って。
この感覚はどう表現していいかわからない。

医療で出来ることは残念ながら無いと医者にきっぱり言われた。セカンドオピニオンで5件ほど病院を回ったが、どこも同じ回答だった。自宅療養しか選択の余地が無かった。

藁にもすがる思いとはこのことだ、という思いで何にでもすがった。食事療法、サプリメント、フコイダン療法(沖縄のモズクみたいな食物繊維)、温熱療法、鍼灸、琵琶の葉療法、足湯、音楽療法、、、。西洋医学がダメなら東洋医学に頼るしかなかった。癌から奇跡の生還を謳った本を何冊も読んで実践した。

私は幸いにもその時たまたま独身無職で実家に出戻っていたので介護に専念した。遠方に住む家庭を持つ姉は仕事を辞め、毎日電車で1時間半かけて、幼い子供を連れて実家に通ってくれた。
めちゃくちゃ仲悪かった我が家だったが、この時だけは家族一丸となって、母の奇跡の回復を願った。

しかしながら、

仲の悪い家族が団結するのは相当な努力が必要だった。
大嫌いだった父への憎悪も、姉への妬みも、一旦全部水に流す気持ちで、無理矢理でも取り繕ってでも仲良し家族をするために頑張ったのだった。


奇跡は起きなかった。
自宅療養をはじめて2ヶ月半くらいした頃、母の体は急激に悪くなった。食事もままならず、歩くことも、排泄することも出来なくなり、ベットに寝たきりになった。痛み止めの薬を飲んでも消化されずに薬がそのまま排泄されてしまう。食べ物を食べると内臓に下りて行く時に、ゴーっと奇妙な音がするようになった。確実に体が蝕んでいってるのを実感した。最後のひと月は本当に不安と恐怖しかなかった。亡くなる3日くらい前の母の体は黄疸症状で真っ黄色になっていた。

最期は、「疲れたからちょっと寝るわ」と母は言って昼寝をし、そのまま3日間起きることなく、永眠した。
家族全員でベットの周りを囲い、10時間くらいだろうか、母の手を握り、「大好きだからね。ありがとうね。」と声をかけ続け、最期を看取った。
呼吸がどんどん小さくなっていって、最後はスーッと息絶えたのを確認した。

私は人間が死んでゆく過程を一通り見たのだった。


葬儀には予想を遥かに超え、大勢の人が駆けつけた。葬儀屋が、こんなに参列者が多いのは珍しいです、と言っていた。


火葬場で肉体が消え、母は骨になった。
本当に居なくなったんだ、と思った。


母の人生は幸せだったろうか。
死にゆく自分の体とどう向き合い、何を思っただろう。
死ぬ瞬間は何を思ったのだろう。


死後10年、これは未だに考えている。


母は専業主婦だった。
30年近くずっとボランティアで子供達に絵本の読み聞かせや朗読をする活動をしていた。障害者の生活支援のパートもやっていた。慈悲深く、愛情深く、おっとりしてるが芯は強く、外の世界では誰にでも慕われる人だった。

一方家庭に居る母はとても脆く、危うく、弱い人だった。父親とは上手くいかず、夫婦喧嘩が絶えず、長年家庭内別居状態。男は外で働き女は家庭を守るという高度経済成長時代の典型的な夫婦だったように思う。普通に親が会話してるのを私は見たことがない。
私は母の弱音をずっと聞いてきた。幼いながらも私の母のイメージは、悲しんでるか泣いてるか、そんな感じだった。その印象は今でも変わらない。私はそんなシミったれた母がある時から大嫌いだった。私は弱音をこぼし、涙を流す母を突き放し、怒りをぶつけ、母をさらに孤独に追いやってしまっていた。


葬儀を思い出せば、あれだけの人が集まって、たくさんの人が母の死を悲しみ、母は幸せ者だ。
と、思ってはみたものの、
死んでしまった人には葬儀の様子なんて知る由もないのだ。


昏睡状態になった3日間の2日目だったろうか、母は大きな声で、ずーっと喋っていたのを今でもよく覚えている。何を発しているのか言葉はまったく聞き取れなかったが、何かを伝えるように、2時間くらい喋り続けていた。

父への今までの恨みつらみだったのだろうか。
と、私は思ったりもしている。
真相は分からない。


母が昏睡状態になった時、父は相当テンパっていた。「お母さんが死んじゃうよ、どうしよう」と泣きそうな声で娘達に嘆いたのだった。
そして、「愛してるよ。」とベットに眠る母に伝えていた。私は「何を今更しらじらしい…」と思った。



3ヶ月半、家族に付きっきりで介護されたことを考えれば、母は孤独に死んだわけではない。短くはあったが3ヶ月半、猶予もあった。
仲の悪かった家族が、この時だけは団結し、会話をし、失われた時間を、関係性を取り戻すような濃密な時間だった。
最期の10時間、母は家族の絆を感じてくれた、愛されてることを確認できた、そうだといいな、と思っている。これは私の願望だ。死人に口なしなのだ。


私の死はどうなんだろう。
病気で早死、自宅で孤独死、突然の死、長い闘病の末の死。死に方は人それぞれで、選択できない。誰にも看取られず、孤独に死んでいくのかもしれない。

あ、私、死ぬんだって分かった瞬間、こんな人生だったけどまずまずだ、くらいには思って死にたい。

いつかのその時まで、
覚悟をしながら、
とりあえず懸命に生きるしかない。


ていう言葉しか見つからなかった…。


母が亡くなった日の夜、
遺体の隣に布団を敷いて2人きりで寝た。
真っ暗な中布団に潜り、久々に音楽が聴きたくなって、なぜかこの曲をイヤホンでずっと聴いていた。
その日は喪失感なんてものはなく、
不安と恐怖からの解放感、やることはやったという達成感、終わったんだという安堵感に満たされていた。

Oasis
「Don't Look Back in Anger」



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