【私の相模原事件〜私と植松と世の中と〜】❺「生きる意味」とは?

7月26日で、事件から丸6年が経ちました。
2ヶ月前からずっと考察してきました。
連載で綴っています。

『相模原事件とは何だったのか?』
が粗方分かるかとは思います。
振り返ることで、皆様のより良い人生の一助にでもなれたら本望ですm(_ _)m。

(※なお、ご遺族の気持ちは承知しています。その気持ちをどうしたら社会に落とし込んで昇華できるのかを考えた上であり、加害者と向き合うのはその一環で、あくまでも第三者の考えです。殺人は肯定していません。ちなみに私は無宗教、政治思想不明です。資料として本5冊、ある程度のネット記事(主に神奈川新聞)を読みました。)

「相模原障害者施設殺傷事件」
2016年7月26日未明、神奈川相模原市にある知的障害者施設津久井山ゆり園に元職員植松聖(当時26歳)が侵入し、障害者19名を刺殺し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせた。2020年3月に死刑が確定した。

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❺『「生きる意味」とは?』

植松の主張は優生思想で括られがちですが、真髄は「人が生きる意味」だと私は思っています。

「肢体不自由になったら生きてる意味がない」
「意思疎通できなければ生きてる意味がない」
「生産性がなければ生きてる意味がない」
「働けなくなったら生きてる意味がない」

彼は自らも「重度障害者を支える仕事は社会の役に立ててないから、自分は生きてる意味がない」と思っていました。「ナチスのユダヤ人虐殺は間違いだ」「自分が肢体不自由になったら死にます」と言いました。

彼の考えは、社会にとって「生きる意味」がない人間は死ぬべき、でした。
「人間がどういう状態であれば生きてることになるのか」これが彼の主張の真髄だったのだと思います。

ある遺族の方が植松にこう言いました。
『人間は、ただ生きてるだけじゃ、ダメなのか!』

これは植松にだけではなく、私達社会へも向けられた言葉だったように思います。

私は「生きる意味」をずっと求めている人間でした。「生きる意味」がないと生きていちゃダメだと思っていました。社会に、誰かに貢献してないと生きてる意味がない。生きることに意味がないといけない。それは、人は生きる意味がないと生きてることにならないという植松と同じ考えでした。

別件でネットでたまたま見た人の発言が頭をよぎりました。
「勉強が不出来で社会の底辺に居た私が、結婚し子供を2人育て、やっと社会に貢献できる人間になれ、生きてて良かったと思いました。」
なんとなく違和感を覚え、印象に残った言葉でした。

人は「ただ生きてる」だけだと不安になって、誰かに認められようとし、価値が欲しくなり、「生きる意味」を見い出そうとしてしまう。
でも本当は、「生きる意味」なんてなくて、

『命があるだけで価値があって、「ただ生きてる」』

それがすべてではないのか…。と、遺族の方の言葉を聞いて思い至った時、喫茶店で人目もはばからず私は泣きました。私はいつの日からなのか、この当たり前の真実から、目を逸らして生きていました。でも今の世の中、「ただ生きる」ことこそ1番難しいことなのかもしれません。

以前noteで自分の半生を投稿してみたら、名も知らない20代前半の青年から「人は生きてるだけで幸せですよ」とコメントが付きました。まだ大して人生経験してないであろう人間にそう言われたことに、正直私はムカつきました。そしてこの言葉は私を悩ませ続けていました。私はそうは思えなかった。
しかし、図らずも、この青年は正しかったのです。

辛くても、悲しくても、誰かの役に立ててなくても、優秀でなくても、お金持ちでなくても、色んなことが人並みでなくても、「ただ生きてる」それでいいではないか!
そう思えると、何も怖くはないし、自分にもあらゆる他人にも、優しくなれる気がします。

いつも死にたいと呟く生活保護受給者の友人に、私は早速伝えました。
「ただただ生きてみて!それで充分だから。」
そして、私と同じように「生きる意味」に迷走していたであろう植松にも、そう伝えたいです。

きっと、国民全員が、自分は「ただ生きてる」だけでも充分なんだと思えれば、誰もが生きやすい世の中になっていくのかな…。
そんなことを思った相模原事件でした。


ただただ明日を生きようとしていた19人の価値ある命を、私は決して忘れません。


*最後に、力をもらえた動画(15分程)*
 https://youtu.be/KzhXPukmyhQ
もしも植松が、この奥田さん(ホームレス支援活動家、SEALDs創設者奥田愛基の父)みたいな大人に、人生のどこかで出逢っていたら、この事件は起きなかった?かもしれないですね。



●番外編『社会問題を自分事にするということ』

その問題の一部、当事者の痛みや苦しみを自らが引き受けることに他ならない。現実の解像度は上昇する。それによってもたらされる目の眩むような複雑性の嵐の中で、社会問題の当事者と同じように、恒常的な不安定性の中に置かれ続けることになる。果たして、私たちはどこまでそれに耐えられるのだろうか。(NPO法人風テラス理事長:坂爪真吾)

→私は感情移入するし、切り替えの出来ない人間なので、正直疲れるし楽しいかと問われれば疑問ですが、「生きてるな」って思えるし、幸福感があります。見えてくる景色が嘘みたいに変わりました。あと、やっと日本人としての帰属意識が芽生えました…。

私は非正規労働者、バツイチ、負け組です。(負けてるとは思ってないですけどね。)
音楽と芸術にしか興味が無かった負け組オバサンの挑戦であります!


(❻へ続く)

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