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【文字としてだけではないことば】


こんな場面があった。
私が悩み、苦しみを抱えている時、それをAさんに相談した。
Aさんは、「あ~そういうことってよくあるよね。でも大丈夫。」と言って、
差し出したのは、“ある励ましのエッセイ“だった。

皆さんならどう感じますか?

まず、私、の立場で思ったことは、より辛い気持ちになったということです。
なぜかというと、このやり取りの中に私が抱えている気持ちはAさんに引き取ってもらっていないと感じるからです。
“私の心が置き去りにされている”感覚。

次にAさんのことばに着目したいと思います。
ここに私、との交わり、寄り添いはあるのでしょうか。
Aという自分と、相談者私という分け方をしているということもあると思います。
だから、前に座るのではなく、横に座る。もっと言えば融合してもいいくらい。

そして、エッセイは、私を思ってくれてなのだと理解するが、
私の気持ちが置き去りの状態では、ある意味、“暴力や凶器ともなり得る”のだと言いたい。

その時ことばが文字としてでしか存在していないのだと思うのです。

ことばが文字化してしまっては、人の心がそこに無いから伝わってこないということがある。
ことばと体は共にあるということ。

こんな話を本で見ました。
ある先生が小学一年生の生徒に指導していても上手くいかない時期があって、その時に参加した活動で、教員と保育者の違いに気づいた。教員はまず指導の内容が書かれたプリントを読み、理解してから活動に加わった。
対して保育者はまず体を動かして子どもみたいに遊び、プリントにメモする人はいなかったと言う。

ことばで指示して理解を求めることを優先にしてきた、つまりことばをからだと切り離していることに気づいたと話しています。

ことばには“言葉にならないことば”がある。

そういったことも豊かに捉えていく歩みをしていきたいと思います。


(かすみ)


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