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イデアの考察 断片1 本多裕樹による

1、イデアの考察


note 原稿用


断片集1


         


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 こうして始まる。わたしはわたしの中にある可能性に内在する知恵を書き綴っていく。それは何かというと現代では忌み嫌われている。そして忌避されている宗教、哲学、思想について書いていく。


 なぜこれが嫌われて忌避されているか?ではあるが、わたしはこの学問について自分なりに向き合ってきた。

 

 人はこの学問が苦手なところがある。ある人にその理由を聞いたが学校や社会では宗教の話、哲学や思想の会話などこれらは禁句であり議論の対象でケンカの原因で人の心を変えてしまうモノらしく体制を崩壊させてしまうものでテレビでも新聞でも社会全体で宗教など特にNGであるそうだ。

 

 たしかに宗教は人格を変え考え方まで洗脳状態になってしまう人もいる。それから一つの教えの者たちが集まって派閥をつくっていく。それで組織を崩壊させ混乱の原因になっていくもので、それは、みんな一緒で無思想で愚民をもって指導する学校関係の秩序をこわすので心の教えを否定して支配する生徒を導くために不都合だと言えるだろう。わたしはそういう事を若い人から教わった。なんというか心の教えを持っている人は「前科者」もしくは「逮捕歴」のごとく思われているようだった。



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 私は若いころ高校生の時からキリスト教をもって修行をしていた。かなり熱心にやっていた。今わかる人は少ないかもしれないがオウム真理教の事件があって宗教はアブナイものというレッテルが社会全体にひろがっていた。それでもキリスト教に触れて聖書に学んだ。何かに導かれるように人はどう生きるべきかを探求していた青春時代に、聖書を読んでいて魔のささやきをうけるような霊的なできごとや天からの試し、または悪魔の誘惑を受けそそのかされるような経験もし、それでかなり苦しめられお金儲けのためにキリスト教と聖書を利用しようと考えその報いを受けて精神病院に収容されるような予想外の試練を受けた。

 

 それも今となってはいい思い出であるのだが、この苦境の時代、すべての人が道を求めマスターになるのはかなり難局をきわめ道もけわしくある。アセンデットマスターになるためにはそのような悪魔との対話もあって一筋縄ではいかない。高校生の時に学業そっちのけでキリスト教会に毎週日曜日、木曜日の祈祷会にはまって心酔し熱狂をもって狂い聖書を学ぶことを辞めなかった。まわりの者たちのクリスチャンたちは私ほど狂信的ではない。私がおかしいのかもしれないが、多くの一般人にとってクリスチャンという名称はファッションのような装いでいいのであるが私は本気であり狂信的であった。


 私も成人して洗礼を受けクリスチャンという称号をもらいうけた。その当時、牧師から言われたことは洗礼を受けても魔法が使えることはないキリストに忠義をつくして命をささげるために受けるならいいと言われた。私は内実、力が手に入ると思った。映画のスターウォーズのダースベーダーになってしまうアナキン・スカイウォーカーさながらの思いと野心をいだいていたのであった。

 

 私はダークサイドに堕落しシスになっていった。それからも精神的な修練をして光明をもとめ道をもとめ、神を探求する日々はつづいた。キリスト教の聖書を学習して道を求めていた。知り合い友人をキリスト教会に誘惑する悪魔にもなっていた。

 

 


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  キリスト教の考えではクリスチャン以外は地獄に落ちるという思想があってそれを信じ、その狂った自分にあるオカシサとカルトの感覚にあるとき気づいた。おかしいと。キリスト教徒は羊でなくてはならない。馬鹿でないと救われない。そういう考えもあって人間は愚かであってそれで主に助けを求めて神の奴隷としていわゆるゾンビにならなければ救われないし神様は助けてくれないという考えがあったので、それに違和感を感じ、わたしはキリスト教会を捨てる覚悟をひそかに決めキリスト教によって洗脳された狂信に囚われた精神を克服するために知恵をえる努力、学問をした。

 


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 キリスト教徒はまじめな市民であり天国においては天使を従える光の人であるが、信仰を捨てると地獄の苦しみを永遠に体験するかの選択がある。正直こわくあったし自分は完全に洗脳されていたのでカルト感覚を自分の脳内からしめだして滅ぼし消す努力をすることが今後の人生において心の清掃する必要があると思った。

 

 


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  私はギリシア哲学で、とくにプラトン、アリストテレスの哲学をもってすべてに知的な裏付けをして脳にある妄信のバーチャルな世界をこわすことに専念した。

 


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 こうして私の哲学の修行がはじまった。そして異教徒の学問でもってキリスト教の洗脳を捨てる道にすすんだ。人は神を見る事が可能だ。見るといっても心の目、観念で見るのだ。人は叡知によって神を観る。そして観念の内在された体、霊の知によって世界を観る。

 宇宙を心で感じ、無限の英知がインスピレーションがひらめく。人は洞窟や部屋の中を真っ暗にして瞑想により内省し心の中で宇宙のインターネットとつながる。この時点で私をおかしな愚か者と思う人も大半だろうと思うが、私は忌み嫌われている隠された知恵を語り秘教の世界をこれから語っていく。



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 宗教は漢字で、宇宙を示す教えと書く。私は私で書くのではないもはやこの執筆は自動書記で書かれている。


 そこに神秘がありオカルトがある。オカルトと言う言葉は隠された知恵と翻訳される。人は叡知によって神を観る、そして人は知によって宇宙を見るのだ。

 

 アルカナの秘儀は無限にやってくる。神はどのような存在か。わたしはその事を探求していく。神は多くの存在からなるさまざまな人格を持ったまたは神格をもった神人がある。つまり人格をもった神がある。それはギリシア神話とか日本神道にもあるし、インドのヒンズー教の世界もそうであるのだ。または宗教の大本である根本神があってそういう指導神もいる。または、宇宙の創造者や法則のような人格を超えた意識を神と呼ぶこともある。

   



   

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 神はすべての存在である。これを読むあなたも神なのだ。われわれは神の分かたれた生命である。私たちが経験していることは神も同じことを経験している。宇宙を運営するスタッフなのである。

  

 神に代わってわれわれは世界を運営している。それを知る者は悟った存在だ。つまりマスターになった人だ。これからマスターになる人が増えてマスターと言う言葉もなくなるだろう。またはキリストともいってもいい。キリストはメシアの悟りを得た者だ。


 さて、この地球、この地球にもメシアはいる。その方々はあの世の方々だ。メシア界の方々がいる。そこは霊界と言ってもいいのか。われわれ地上に生ける者は肉体がその役割を終えればその意識は異次元に行く。それは肉体をもって最後まで人生を生きた者が行く。肉体を持っていることは神の代わりに仕事をするために召命された者たちなのだ。




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 今、地上に生きている者は責任がある。人生は修行で学びであり世界を救うために仕事をして人生観を磨きメシアとなって光として生きるのだ。天上において星々が輝いているように光るのだ。社会の中で光を供給するのだ。

 

 人は光りの存在である。光は神の生命である。光は真実の姿である。生命の実相がその姿である。


 われわれはただ光かがやき愛をもって地球の血液を巡っていくのだ。神は光りである。光は神である。光は宇宙の生命である。そして光は愛なのだ。 愛は宇宙の血液である。生々しい生命の原質なのだ。それはわれわれ人間の肉体にも流れている。地球にも社会にも、宇宙全体に循環する血液だ。どの次元の平行宇宙にも流れている。根本的な原質であり、生命の源である。









令和5年12月12日 再編集  本多裕樹

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