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手記239・88  本多裕樹 手記

手記239・88



 今日もこうして始まりました。何をしようにも喫茶店にあって紅茶を飲みながらこの文筆に進んでいます。最近何をしたかでありますが、相変わらず仕事と芸術に勤しんでいると言えます。私の年代になると家を持ったり家庭を営んでいる人間がほとんどでしょう。私はそういう、普通な生活とは無縁であります。もう、42歳になり中年の歳を数える状態にあります。今まで何をしてきたかでありますが、アートに頑張っていたという事実があるだけです。普通の生活を、普通の人生を歩んでこなかったのです。皆様はどうでしょう。もし、結婚して妻子があるならとても尊いことに思います。


 これまでもそうでありましたが、これからもそうでしょう。芸術に精進して人生をかけているのは、夢を追う人であると言えましょう。堕落した人生でもあるし、道を求める人生であったと言えましょう。私は何をしてきたのであろうか。そういう虚しさも抱えつつも、確かにやるべきことはやったのか。まだ、やるのか。雪だるまであるのだろうか。私は崖に落ちるのであろうか。そんなことは今、かもしれません。


 死にいたる病は生きているその状態だ。いつかは確実に死ぬのはわかっている。もう、人生に満足したのだろうか。まだ、やるべきことがあるのだろうか。ただ、絵を描き道を求めるというのだろうか。




 私は思考する。不可能を可能にする奇策を考える。なんのために生きているのだろうか。若い頃は夢があってそれに向かって進めばよかった。もう、お迎えが来るのだろうか。やり尽くしたのであろうか。干からびたのだろうか。私はどうなっていくのか。そんなことは悩みに入るのだろうか。もう。あとの世界は若い人たちに任せていくべきだろう。しかし、私も性別が一応、男であるがゆえに闘争心もあるのだ。負けてはいけないのである。男は勝ち続けなくてはならない。それが男の証明である。たとえ負けようとも、ただで負けてはいけない。何割か勝たねばならない。勝つことが男の道である。



 詩人としての私もあるが、詩を書いている時は自分が自分でない、もっと別の人間になっている。別人である。詩はやっぱり預言なのかもしれない。それか頭が狂っていることもあるかもしれない。何かに酔っている可能性もある。


 未来はあるか、私は、ただ日々働いて、寝て、制作し、詩作をする。それしかない。若かりし頃のあの何にでも感動できたあの感性はどこに行ったのだろうか。すべてが輝いていた日々があったのだ。


 晩年には晩年にあって死を待つまでもなく、後悔しないように芸術道に精進して朽ち果てようでないか。


そうなれば君もいるだろう。


かつてのいた人たちの故郷に私もいつかいくことになるだろう。今、生きていてやるべきことをやり尽くして、本当に干からびてしまうくらいに燃焼していきたい。



後悔しないように



令和6年4月20日 本多裕樹 記

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