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あなたの「正しさ」は相手を動かせない 〜「正義」から「責任」へ(その2)〜

前回は、「正しさ(正義)」と切り離して、「よさ(倫理)」を考えることが必要だと述べました。「正しさ」は、人を動かすことができず、むしろ結果として人を苦しめることになるからです。

「毒親」に反省や謝罪を求めてもむだ

自分の親が「毒親」だと思う人は、親が自分を「人として尊重してこなかった」ことが、今の自分のつらさを生んでいると思っています。自分を「繊細さん」だと思う人は、自分の特性(繊細さ)をまわりの人たちが理解し、尊重してこなかったことから、今の自分のつらさが生まれていると考えます。

人権尊重や多様性の尊重の観点に立てば、もちろん今述べたような親やまわりの人たちへの批判はどちらも「正しい」のです。しかし、その「正しさ」にもとづいて、親や周りの人たちに反省や謝罪や行動の変容を求めても、実際には親はまず変わりませんし、周りの人たちも変わりません。むしろ、「何を言っているんだ。そういうことを言うのは、お前のわがままだ。わたし(たち)は正しい。おかしいのはお前だ」と言われることさえあります。

神や正義がなくても、「よさ」は実現できる

だれでも一度は必ず「なぜ(わたしの)『正しい』意見がとおらないんだろう」と思ったことがあるはずです。そして、あまりにおかしな、理不尽なことがまかりとおっているのを目にすれば、「なぜ、こんな間違った、おかしなことがまかりとおっているんだろう。どうして誰もこんなおかしな人たちを罰しないのだろう」と思います。そして、最後には、「この世には、神も正義もないのだろうか」と思います。わたし自身もそのような経験をしたことが何度もあります。その度にくやしい、やるせない思いをしました。しかし、いくらくやしい思いをし歯ぎしりをしても、相手も世の中も変わりません。

そんな経験を重ねる中で、次第にこんなふうに考えるようになりました。

「この世には、たぶん神も正義もないのだろう。少なくとも、神は永遠に沈黙しているし、正義はいつになっても発動しない。結果として、悪は罰せられることなく平然と、のさばり続けている。どう考えても、これが実際に起きていることだ。しかし、これは、この世に『よさ(善)』が成り立たないということではない。『よさ』は、人が具体的な実際の行動で、日々、実現できるものだ。神や正義がなくても『よさ』はありうる」と。

いくらわたしが「正しいこと」を言っても、人は動かない

「毒親」や「繊細さん」の話に戻ります。
子どもの人権の尊重とか、多様な特性を持った人の尊重というような、一見だれが考えても「正しい」と思えるような「正しさ」も、実際には他のさまざまな「正しさ」と同じように、人を変えたり、動かしたりする力を持っていません。

なぜ、いくらわたしが「正しい」ことを言っても、人は考えや行動を変えないのでしょうか。理由自体は簡単です。わたしが「正しい」と思っていることを、その人は「正しい」とは思わないからです。実際には、人はみなそれぞれ違った「正しさ」を持っていて、わたしの「正しさ」とその人の「正しさ」は違っているのが現実です。

だれも認めたくない事実

このことをわれわれはみな、経験として知っていますが、事実としては、あまり認めたくありません。われわれは生きている中で、そのようなことを嫌というほど経験しているのですが、いくらそのようなことを経験しても、「まあ人はみんな違うんだから」とか「正しさは人それぞれだ」とは、なかなか思えません。

この世には「正しさ」が、なければならないと思い、さらに「正しさはひとつしかない」と思い込んでいるからです。この「正しさはひとつしかない」という大前提に立てば、自分の思っていること、言っていることが「正しい」のならば、それと違う意見や考えは、すべて「間違っている」ことになります。逆に言えば、相手がわたしの言うことを「正しい」と認めない限り、わたしが「間違っている」ことになってしまうのです。

「正しさ」は「義務」を生む

「正しさ(「それが正しい」)」は、このようにわれわれを強烈に支配しています。すると、その先に、必ず出てくるものがあります。それが「義務(「みんなそうしなければならない」)」です。「正しさ」を信じる人は、自分が「強い立場」になった時、自分の「正しさ」にまわりの人たちが従うことを当然だ、義務だと考えます。だって、「正しさ」はひとつしかないからです。

「義務」は「強制・強要」を生む

しかし、自分が属する集団や組織の中で、その「義務」に従わない人がいた時、自分を「正しい」と信じる人は、そんな相手を自分の「強い立場=力」を使ってでも自分に従わせようとします。たとえば、それがパワーハラスメントになります。

このように「義務」の先には、力を使ってでも無理やりそうさせようとする「強制・強要」が出てきます。自分の「正しさ」を信じる人は、相手が「間違っている」、つまり「おかしい」のだから、その「間違い」を力を使ってでも相手にわからせて、相手の考え方や行動を変えようと思うのです。だって、わたしは「正しい」からです。このような「正しさ」→「義務」→「強制・強要」の結果として、パワーハラスメントや児童虐待などのさまざまな人権侵害や差別が起き、さらには戦争やテロや虐殺が起きてきます。

力による「強制・強要」は「悪」になる

しかし、どうしても忘れてはならないことがあります。どんな「正しいこと」やどんな「よいこと」も、力による「強制・強要」になってしまったら、もはや「よいこと(善)」でもなんでもないということです。それどころではありません。もし、この世に「悪」というものがあるとすれば、「正しさ」の名のもとに、力で相手の命や人生や生き生きとした生活を奪うこと(戦争やテロや虐殺)こそ、まさに「悪」です

「義務」と「強制・強要」から、部落差別が始まった

「強い立場」の人が自分の「正しさ」にもとづいて、「弱い立場」の人に、「正しいあり方」を「義務」として「強制・強要」することから、人権侵害や差別が始まります

1871年(明治4年)に「太政官布告(いわゆる「解放令」)」が出されました。その結果、明治政府によって身分制を含むそれまでの体制が壊されることに恐怖を感じた人たちが、被差別部落の人たちに、昔と同じように身分に従って生きることを「義務」として「強制・強要」しようとしたところから、部落差別が始まりました

厳密に言えば、江戸時代にあったものは身分制であって、差別ではありません。歴史的には、「太政官布告(いわゆる「解放令」)」の2年後、1873年(明治6年)に岡山県の美作(みまさか)地方で起きた暴動(「美作一揆」などと呼ばれます)が、部落差別の始まりを告げる事件です。この暴動の中でたくさんの被差別地域の人たちが虐殺されました。(くわしくは、「高校生のための人権入門(7)同和問題(部落差別)について」などをご覧ください。)今となっては信じられないことですが、「美作一揆」を起こした人たちにとっては、かつての身分制などにもとづくあり方こそが、ただひとつの「正しい」あり方だったのです。

「義務」としての「強制・強要」から、人権侵害や差別が始まる

女性差別にしても、昔ながらの男女のあり方(ジェンダー)を「正しい」と考え、それを女性に「義務」として「強制・強要」することから生まれています。外国人差別も、性的少数者への差別も、認知症の高齢者への差別も、障害者への差別も、まず「強い立場の人たち」が考える、自分たちにとっての都合のよい「あり方」(「『弱い立場』の人たちが、おとなしく、こちらの言うことに従っていればいい」)を人の「正しいあり方」とし、それに従わない人への不快感(「人に迷惑をかけている」等)、非難、攻撃が、人権侵害や差別となっていきます。(具体的な人権問題に関する内容は、「高校生のための人権入門(全27回)」などをご覧ください。)

「みんなのため」「あなたのため」というウソ

このような「正しさ」→「義務」→「強制・強要」の連鎖を押し進める「強い立場」の人(たち)は、とかく「こうすることがみんなのためなんだ」「あなたのためなんだ」という理屈を使います

たとえば、親が不登校のわが子に、「これはあなたの幸せのためなんだ」と言って無理やり子どもを車に乗せ、学校の正門まで連れていくようことです。自分の「正しさ」に相手を従わせるという行動は、実は自分の「自己愛(自分への満足欲求)」にもとづいています。「こうすることがみんな(あなた)のためなんだ」という「おためごかし」の理屈の背後にあるのは、実は「相手(子ども)にこうさせることができなければ、わたしは(親として)みじめになるんだ」という不安です。

「よさ(倫理)」を「利益(あなたのため)」と切り離す

前回、わたしが「よさ(倫理)」を、相手の利益(あなたの幸福のため)から切り離さなければならないと述べたのは、このような「相手のため」という「思い」が、実はその人の「自己愛(自分への満足欲求)」にもとづいているために、結果として相手への人権侵害を生むからです。「相手の利益(あなたの幸福のため)」という「思い」が、そう思っている人の「自己愛」と結びついた時、本人にとっては「愛情」や「善意」の発露と感じられている行動が、人権侵害や虐待や差別につながるのです。

もうひとつの「正しさ」→「義務」→「強要」の連鎖

「正しさ」→「義務」→「強要」の連鎖が生む問題は、実はこれだけではありません。人権侵害や差別に対して怒りを感じる人は、人権侵害や差別は絶対に許されない行為だとして、この世から人権侵害や差別をなくさねばならないと考えます。そして、人権尊重、差別の根絶という「正しさ(正義)」を掲げ、人権尊重を人の「義務」とし、人権尊重の主張から人権侵害や差別をしている人、それを傍観している人に反省と謝罪と行動の変容を「強制・強要」しようとするのです。

人権侵害や差別を行う側と、それを批判しなくそうとする側と、目指す中身はまったく逆なのですが、実は「正しさ」→「義務」→「強制・強要」という連鎖自体は、人権侵害をしている方も、それをなくそうとしている方も、鏡に映った像のようにまったく同じなのです。人権問題とは、このように見れば、「正しさ」と「正しさ」のぶつかり合いなのです。

「正しさ」では人権問題は解決できない

しかし、最初に述べたように「正しさ」では人を動かすことはできません。職場でパワーハラスメントをする加害者が、「働く者の常識や義務」という「正しさ」で被害者を動かすことができないように、被害者側も人権尊重という「正しさ」で加害者を動かすことはできないのです。「正しさ」では人権問題は解決できません。むしろ加害者と被害者の双方が、自らの「正しさ」を強調すればするほど、解決は困難になるのです。パワーハラスメントの解決にあたった経験のある方は、たぶんよくご存知のことです。

「正しさ」は「虚構」、「強制・強要」は「悪」

「正しさ」→「義務」→「強制・強要」という連鎖では、人を動かすことはできません。なぜでしょうか。「強制・強要」されて動くことは、人が生き生きと生きていく上でもっとも大事な「安心・自信・自由」を奪われることだからです。くり返しますが、どんな「正しいこと」やどんな「よいこと」も、力による「強制・強要」になってしまったら、もはや「よいこと(善)」ではありえません。

わたしが、前々回前回と「正しさ」が「虚構」であることをくり返し書いてきたのは、「正しさ」→「義務」→「強制・強要」という連鎖の始まりである、「正しさ(正義)」の支配力を弱めるためです。

相手に「義務」ではなく、「責任」を求める

ではどうすればいいのでしょうか。自分の「正しさ」ではなく、自分の「つらさ」にもとづいて相手に働きかけること。そして、相手に「義務(そうしなければならない)」ではなく、「責任(そうしないではいられない)」を果たすことを求めることから、道が開けるのではないかとわたしは考えています。次回、このことについて書いてみたいと思います。


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