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ニュータイプに目覚めたところで、その先に何を実現したいのか?

昨年に公開された富野由悠季監督と落合氏のインタビューの中で「知の愚明」という言葉で現代のSNS中心の社会に対する批判・皮肉が語られていた。
そのごく一部がYouTubeにアップロードされているので見て欲しい、良くも悪くも言っていることは間違いではないから。

しかし、岡田斗司夫やひろゆき同様富野監督の発言も出る度に言うことがコロコロ変わるので鵜呑みにはできず、ポジショントークの可能性は高い。
それに私はこの人の提唱する「ニュータイプ論」なるものに全く共感も共鳴もできなかったため、あくまで話半分で適当に受け流している。

まあ監督の言う「知の愚明」、すなわち本来なら人の生活を豊かにする目的で作られたはずのIT技術が結果として全く違う方向に行っているのはその通りだ。
だがそれは私にとっては今更指摘されるまでもないものであり、そもそも第二次世界大戦の愚行の数々を見れば人類がいかに愚かな存在かは一目瞭然である。
強き力を持つと人は使わずにはおられず、日本だけで見てもアメリカが広島と長崎に落とした原爆の悲劇がその愚かしさを如実に物語っているのだ。
アインシュタインをはじめ当時の科学者たちはまさか自分たちの研究や発明があの様な形で使われるなどとは思ってもみなんだであろう。

しかし悲しい哉、人間というのはそう簡単に変わる生き物ではなく、あれだけ悲惨な経験をしたにも関わらず今はネットを使って同じことを繰り返している
監督が指摘する様にスマホができて人類は百科辞書を毎日便利に持ち歩く様にはなったが、それで本当の意味で人々は賢くなれたのかというと、実はなれていない。
それどころか、SNSで醜い承認欲求合戦を毎日繰り返しており、注目を浴びたいからと以前には考えられない様な飯テロ・バイトテロのような迷惑行為が頻発している。
私もTwitterを利用して1年以上経つが、この1年で改めてSNSを通してわかったことは「民衆の愚かさ・残酷さ・怖さ」であり、それを一番具体的に教えてくれるのが Twitterだ。

だから富野監督はそれを危惧して「機動戦士ガンダム」という作品を通して「人類はニュータイプに目覚めよ」と訴え、そして挫折してしまった人である。
しかし、私が一番引っかかったのは富野監督が挫折してしまった理由を「ニュータイプに目覚めさせる方法を思いつけなかったから」と言っていたことだ。
つまり富野監督は自身が提唱したニュータイプ論自体が間違っているわけではないと言っているのであり、私はこれに猛反発している。
本当にニュータイプ論が間違っていないのであれば、時間はかかってもその理念は形を変えて伝承されていくはずだし、受容されているだろう。

だが現実はそうなっていない、それどころか作った本人ですら持て余して「Z」「ZZ」「逆シャア」とどんどんニュータイプ論が戦争の理屈の中に飲み込まれていく。
それは富野監督以外が作ったアナザーガンダム(G・W・X・SEEDシリーズ・OOなど)でも変わっておらず、むしろ悪化の一途を辿っているのだ。
私は理解も納得も全くできないが、それこそガンダムファンからは軒並み嫌われたSEEDシリーズなんてニュータイプ論が完全に悪用された世界観であろう。
キラ・ヤマトをはじめとしてあの世界では特殊な種割れ(SEED)が決して物語の中で肯定されず、むしろそれが人々のエゴ・嫉妬・羨望といった負の感情を連鎖させる元凶となる。

そしてその発達しすぎたオーバーテクノロジーの煽りを一番食らったのはキラ・ヤマトに取って代わるはずだったシン・アスカではないだろうか。
彼はキラをも超える才能とセンスの持ち主=第二のカミーユ・ビダンとして描かれていながら、その性格的欠点で増長した挙句どんどん大切なものを失っていく。
そして気がつけば主人公の座ですらキラに剥奪されてしまったわけだが、これらの事実が示しているのは過ぎたる力に耐えうるのはごく一部の天才だけという残酷な真理だ。
結局SEEDシリーズの世界で特殊な力に飲み込まれなかったのはラクシズだけなのだが、そのラクシズですら最終的な新興宗教と化してしまう別の罠に陥ってしまう。

これは大人気ジャンプ漫画「ドラゴンボール」ですらも陥った道であり、あの作品こそ正にオーバーテクノロジーを手にしてしまったが故の負債が後半〜終盤で待ち受けていた。
「ドラゴンボール」の孫悟空VSフリーザで登場した超サイヤ人というオーバーテクノロジーは鳥山版ニュータイプともいえるが、それが決してメリットだけをもたらしたのではない。
長期連載を続けていく中でその超サイヤ人ですらも強さのインフレというバトル漫画の理屈に飲み込まれていき、単なる便利能力として陳腐化していった
それどころか超サイヤ人を超える人造人間のエネルギー吸収や無限エネルギー、更には細胞吸収による無限の成長といったものを敵側が生み出すようになる。

そして遂には物理攻撃が一切効かず戦士の力を丸ごと吸収できる魔人ブウという悪のカービィが出てきて、強さのインフレすらも無価値・無意味なものとなったのだ。
そうなると、最初は人智を超えた神秘性のある超サイヤ人はその神秘性を失ってしまうのだが、これは正にガンダムシリーズでいうと「Gガンダム」までのガンダムシリーズが辿ってきた歴史と重なる。
突然沸き起こったニュータイプを人類が戦争に利用し強さがインフレし、行き着いたところが無限に成長・進化しうるデビルガンダムという恐ろしい存在だった。
「Gガンダム」のラスボス・デビルガンダムはドラゴンボールの魔人ブウをガンダムシリーズでSF的にオマージュしたものであり、それに勝つにはドモンとレインの「愛」しかなかった。

このように、どれだけ崇高な理念や概念が打ち出されたところで、それを正しく使いこなせるのはごく一部の天才であり、それ以外の凡人は私利私欲に悪用する以外の発想を持たないのである。
「ニュータイプにどう人々を導けばいいかわからず挫折した」と富野監督は言っているが、そもそも人類の問題を新人類に目覚めることで解決しようとすること自他に問題があるのではないか?
それは言ってしまえば「無い物ねだり」であり、だから富野監督も結局は「尤もらしいことを言っている老害」というのが私の中で一貫した富野監督に対する印象である。
ニュータイプそのものが偉いのではなく、ニュータイプに覚醒した上で何を実現したいのか?という視点が富野監督には欠けていたのではないかと私は思う。

あくまでもニュータイプは1つの思想でしかない、そのことに気づかない限り同じ過ちが繰り返されていくだろう。

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