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「生と死」のために(旧IAMAS Life Ethnography Project)
かつてIAMASにあったLife Ethnoguraphy Projectでの活動を紹介していましたが、いまはその主宰であった小林昌廣の個人的な投稿となっています。
「生と死」また「性と死」をめぐるさまざまな文献を紹介していきます。
ソラリスの非-存在論
そもそもソラリスとは存在なのか概念なのか、あるいはなにものかを作る創造者なのか、単なる受容体なのか…。圧倒的かつ絶対的な他者として人類の前に出現したソラリスは、レムの小説ではきわめて美麗で巧緻な表現によって「海」とされている。その全体的な流れ、飛沫、渦巻き、色彩、温度感覚などがまるで生き物のように蠢くそのさまがレムの筆力によって描かれている。だから、読者は最初からこれを「海」と思って接してしまうだ
もっとみる折口信夫「死者の書」を読む 〜IAMAS2022に寄せて
彼の人の眠りは、徐かに覚めて行った。まっ黒い夜の中に、更に冷え圧するものの澱んでいるなかに、目のあいて来るのを、覚えたのである。 したしたした。耳に伝うように来るのは、水の垂れる音か。ただ凍りつくような暗闇の中で、おのずと睫と睫とが離れて来る。膝が、肱が、徐ろに埋れていた感覚をとり戻して来るらしく、彼の人の頭に響いて居るもの――。全身にこわばった筋が、僅かな響きを立てて、掌・足の裏に到
西田幾多郎の生命哲学④
そして、もちろん考えるべきことは、眼はいったん形成されると、それで進化を止めてしまうわけではないということである。眼は「個体」においてつぎつぎと形成され、それらはそれぞれが「問題」である世界に対する、まさに種的で歴史的でもある「解答」をなしている。しかし、光という課題は与えつづけられる。それはまさに無限の課題として与えられる。だから生命は、ある局面においては、まったくあたらしい眼をつくりだすもの
もっとみる西田幾多郎の生命哲学③
「弁証法的一般者の自己限定として、種々なる種が生れると云うことができる。故に種は世界歴史的に自己自身を否定することによって却って生きるのである。歴史の進行は種の連続ではなくして、個性的進行でなければならない……」(8190)「個は内的に媒介せられるものでなければならない。その故に生きたものである。個は種的でなければならない。併し主体が環境を、環境が主体を限定し、弁証法的自己同一として、種が生きると
もっとみる西田幾多郎の生命哲学②
「我々の身体は歴史的身体である、手を有つのみならず、言語を有つ。我々が歴史的身体的に働くということは、自己が歴史的世界の中に没入することであるが、而もそれが表現的世界の自己限定たるかぎり、我々が行為する、働くと云い得るのである……我々の身体的自己は歴史的世界に於ての創造的要素として、歴史的生命は我々の身体を通じて自己自身を実現するのである」(847)身体、道具、言語そして歴史。これまでの西田では論
もっとみる西田幾多郎の生命哲学①
「場所」論はそれ自身、生命論のひとつの段階として想定されるものでもある。「絶対無」の場面は、まさに「深い内的生命」の記述に通じていくように描かれる。さらに「行為的直観」や「絶対矛盾的自己同一」によって、「ポイエシス」を直接論じる西田が、生命をその論述の中心的なモデルとしてとらえていたことは間違いがない。それは、後期の重要な著作が「論理と生命」と名づけられていることからもわかる。西田は最晩年にも「生
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