ヤモリやカマキリはいつもそばにいる
ヤモリやカマキリはいつもそばにいます。
いつもです。
この感覚ですが、ピンっと感じた方は僕と似たような幼少期を過ごしたかもしれません。
幼少期と言っても、僕の中ではこの感覚は小学生の頃に限定しますが、僕の当時の憧れの対象は、まさに”ヤモリ”や”カマキリ”と言った昆虫だったんです。
僕が小学生の頃に明け暮れていた日々は、それこそ”虫取り”や”ムシキング”なわけでした。
ホームセンターに行っても、まずは生き物から物色するというのが、当時のルーティンでしたし、誕生日の日にはコーカスオオカブトというこれはこれは大きな立派な角を3本も搭載をした生き物まで飼ったこともありました。
生き物と言っても、当時の興味は専ら昆虫類であって、鳥類や哺乳類にはあまり興味を覚えませんでした。
いつも決まって目にするのは、ムシキングに出てくる大きなカブトムシやクワガタ君を楽しみに、そのホームセンターを楽しみによく週末には一人で見に行ったりもありました。
この昆虫セリーは、どんな味なのかな?
果たして、このゼリーを僕が飼っているコーカサスくんは食べるのであろうか?
という視点で日々を生きていたことを今にでも、覚えております。
なぜ、それほどまで当時の僕が、昆虫という生き物に興味が働いていたのかというと、一つに”強さという象徴性”があると思うからだと思います。
強さです。より強いのはどちらなのか、弱肉強食、単純明快です。
小学生の僕は、生物としての強さにロマンを感じていたというのが大きな要因でしょう。
それを裏付ける証拠として、
僕が没頭をしていたムシキングというカードゲームも、まさに強さというベクトルで設計されていました。
それは虫ばっかりに明け暮れ、漢字ドリルや計算ドリルを最後まで後回しにしていた、おバカだった小学生の僕にとってもすごく分かりやすく、強さというものを表現が精細になされているのです。
その表現形式はオリンピックメダルのように、金銀銅、その他という”色合い”であったり、”数字”という形式という配列で誰が見てもどれが強いのか、弱いかが分かってしまいます。
金には200という数字を
銀には180を
銅には160を
その他は雑魚キャラ
と言ったように、人類普遍的に見ても世界中の誰が見てもそれは分かってしまうほどに、容易に理解ができてしまうほどです。
トリッキーな例として、黄金色をしたクワガタがいましたが、それはふつーに考えたら200で金に君臨するような感じをしましたが、それが意外にも180のシルバーであったこととか、
そういう予想に反したゲーム性を考慮し、大人になった現在の僕でも面白さを駆り出させてくれるsega社には感謝したいですね。
強いものには強そうな表現を、
弱いものには弱そうな表現を、
非常に明快にムシキングというゲームは著しているのだと、思います。
中学生くらいからオリンピックと言われる世界の頂点を決める戦いとして、その副産物として金銀銅の強さという色の順序づけがされますが、
金が一番強くて、銅が一番劣っている、ということなんて当時の小学生低学年のおバカな僕には理解していなかったと思うんです。
だけど、なんとなく金色が強いというのは、ぼんやりとは分かっていましたし、それを的確に表現をしたsega社には素晴らしいものだなぁと、ここにきて感動をしております。
さて、小学生の僕が無類の昆虫好きだったんだ、ということは理解したとして、、
ここから言いたいことは、「幼少期の思いは何がしかの安心感を感じる」ということです。
ここでいう幼少期の思いとは、つまり幼少期に自分は何に明け暮れていたんだろうか、ということですが、
僕は再三言っているように、昆虫に没頭をしていたわけです。
どうして、没頭をしていたのかというと、僕の当時の世界観は強さこそ正義であって、強いもの以外興味の対象外だったんです。
その強さはまさに昆虫であったから、そこまで没頭ができたんじゃないのかなぁと結果的に感じるのです。
で、この安心感というものですが、”当時の心境とリンクをする”という現象が無条件で起こると安心という現象が発生をしてしまうものだと思っています。
ここで題名に戻りますが、ヤモリやカマキリは、僕の憧れでした。
そのヤモリや、カマキリを15年越しに同じように見てみると、”強さよりも安心感”という要素が現在の僕には感じてしまいます。
そのわけは、当然ですが15年も生きていると、強さという概念が必ずしも力だけでは、到底測れないんだと分かってきたからです。
今では、当時に強かった金色の200という生き物も本当に、今の僕にとっては強いとは思えないからです。
仮にその他の雑魚キャラ代表であるコクワガタ君でも、精神性ではどうであろうか、継続性はどうであろうか、個体として希少性があるのか、という強さが今の僕には理解しているからです。
つまり、強さとしての概念が広がったから。
当時は、生物としての強さがそのままの価値に変わると言った単純明快な分かりやすい価値観だったわけです。
でも、それは今ではその要素も内包をしつつ、そこからさらに強さとしての概念が広がっているというもの。
だから、同じ対象物を見ても(強さ200のヘラクレスオオカブトを前にしても)過去の解釈と、現在の解釈、そして未来の解釈は変わっていくものなんだと思っています。
面白いですよね。
同じヘラクレスには変わりはないのに、、。
で、何よりもその当時の心境にアクセスができたということが、最近庭で見たヤモリやカマキリを見て率直に感じたんです。
「ああ、あの時はこう思っていたなぁ、、」という安心感を感じれたことに温かみを感じてしょうがありませんでした。
安心感としての要素
この安心感という要素を少し、紐解いてみると”不変性”といういい意味で変わらない良さということであると考えています。
これは、成長思考や先進的な人な方であればあるほど感じる要素でしょう。
数年前の当時の僕とで、何一つ変わってしまい、辺りにいた人間もなんだか距離感だったり、呼吸の不一致、時空の歪みを感じてしまう。
今、見渡してみても、本当の意味で自分以外に信頼できるものがいないかもしれない、
そんな方でも、ふと庭に姿を現したヤモリ君やカマキリ君を見てごらんなさい。
心半ば、ヤモリやカマキリはいつも変わらずに僕のそばにいるんです。
こういった変わらない不変性としての要素が、温かみを感じる対象物なんだと思っています。
“懐かしかったあの昭和の頃”なんて、良い例でしょう。
少し息詰まったり、息が窮屈になったらこういう感情にアクセスすると心が洗われるかもしれませんね。
筋肉代行屋J
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