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一言で済む話を何千字、何万字という言葉にする。その気持ちを、笑われてたまるか


「結局、〇〇ってこと?」

呼吸がつままれた気がした。


遠回しに、遠回しに。
一言で済ますこと、それが適切である場面は多くある。

上司への報告は簡潔に。
わたしが長々と経緯を話そうものなら、途端に相手は目の色を変えて言う。


「結局、結論はなんなんだ。」


でも待って。まだ早いの。

気持ちを一枚一枚重ねているところだから。
ひとつひとつ色を足しているところだから。

風が一瞬でも強く吹けば、それは消える。
黒い絵の具を撒けば、それは消える。

すぐに言葉に辿り着いても、面白くない。ただ相手は待ってはくれない、仕事だから。けれどわたしの書いている"これ"は仕事ではない。いつの日かわたしは言葉だけで生きていきたい。それはつまり仕事になるということかもしれない。それでも、それでも。わたしたちが持て余しているこの人生を思う存分文字に、言葉にさせてほしい。たった数文字で終わる感情を、何千字、何万字にする。しかしそれは心を薄めているわけではない。むしろより濃くなり、またその中にある淡く繊細な部分が際立つのだ。

言葉を広げる、そして機微を笑わない。でも、笑われてもいい。全員が同じ場所で生きることなど出来ないから。それでいい。それでいいよ。ただわたしが届けたいあなたには、読み飛ばされたくはない。結論なんて見えている。そこまでの景色も匂いも約束も抱き寄せてほしい。書くことで報われること。その真意にわたしは大袈裟ではなく、迫りたいのである。



わたしには高校時代、女の子の友達がいた。

その女の子は、普段から大人しかったけれど、感情をたしかに持っている人だった。人と話すとき、彼女はきっと相手の小さな心の動きに敏感だった。だからこそ傷つきやすく、溜め込みやすい。人を想いすぎるあまり、空回りしている場面は何度も見てきた。



そんな彼女には当時好きな人がいた。

誰にでも愛されるような表情をしている、とある男の子のことが好きだったのだ。そして、バスケ部に入っているその男の子とわたしは仲が良かった。昼ごはんも一緒に食べるし、部活のない放課後はよく一緒に遊んだ。定期テストが近づけば、お互い教室に残ってふたりで勉強した。気さくで、わたしのことをいつも笑わせてくれる。そんな彼のことがわたしも友達として大好きだった。


だからこそだろうか。
彼女はある日、わたしに相談をしてきた。

その内容は、わたしの友達である彼に告白をしたいということだった。でもどう伝えたらいいかわからない。メールをするのも緊張する。かといって目の前で声に出して伝えるのも出来そうにない。

ただ、彼のことが「好き」

伝えたい、そして彼とお付き合いがしたいという。

青春時代の甘酸っぱさを、今になってわたしは感じ取る。思い返すほどに、20代後半のわたしには沁みる内容だ。


「そしたら、手紙を書いて渡そうよ。」

わたしはそう提案をした。
彼女が物凄く綺麗な字を書くことをわたしは知っていたし、手紙に文字として起こせば、気持ちをこぼすこともないだろう、そう思った。


「そ、そうする。」

彼女は、迷いながらも手紙を書くことに決めてくれた。そしてそれは手紙を、よくある相手の下駄箱に入れたり、引き出しに忍ばせておくのではなく。書いた手紙を直接渡し、その場で読んでもらうことにした。それについては彼女が決めた、きっと心を目の前で感じ取りたかったのだろう。


告白をする当日。
授業が終わり、放課後をむかえた。
わたしの友達である彼はその日、バスケ部が休みだった。意を決して彼女は彼を、誰もいない体育館裏に呼び出していた。


そこで、彼女は渡す。

「手紙を書いたから読んでほしい。」

そう伝え、彼は手紙を開き、読み始めてくれた。けれど、その時間は一瞬だった。手紙の大きさ的に、およそ1000文字ほどは書かれていただろう。それに1,2秒目を通し、彼はすぐにこう言ったという。


「結局、俺のことが好きってこと?」



後日わたしはこの話を聞いて、自分のことのように哀しくなった。そして悔しかったことを覚えている。人それぞれ言葉の受け取り方、気持ちの受け取り方は違う。そして伝え方だって様々だ。正解もなければ、むしろ不正解に近い結果になってしまうことの方が多いだろう。


彼女は言葉にした。文章にした。

「好き」だけでは足りない。
それかより「好き」を濃く伝えるために、別の言葉を合わせていたのだろう。一文字一文字に価値があった、心があった。けれど彼は読み飛ばしてしまった。誤解してほしくないけれど、わるく言うつもりはない。ただ言葉を全て伝えきるための心の積み重ねは、これほどまでに簡単に崩れ去ってしまうのか。


ここまで書き、想像がつくかもしれない。
彼女は彼に、振られてしまった。

そこからの詳細は彼女には聞いていない。手紙という方法を提案したわたしにとっても、彼女の力になれなかったことが当時悔しかった。

それからも、かわらずわたしは彼と友達で居続けたし、返しの言葉も"彼らしい"とは正直思っていた。どちらが、という話はここまでにしたい。

書いて相手に読んでもらうというハードルを越える。書いている側からすればそれは本当に恵まれていて、奇跡のような体験なのだろうと。そんなことを10年以上経ち、書いている側となったわたしは深く、感覚を飲み干そうとしたのである。



沢山の文章、言葉にわたしは触れるようになった。書いて生きるために、日々こうして言葉と向き合っている。そして人と会い、機微を大切に抱きしめている。だから、長くなるのだ。言葉が多くなるのだ。

長ければいいってものでもない。勿論、冗長であるという話もあるだろう。それはそれで、いい。短いからこその価値も当たり前にある。

ただ血も涙も息も傷も。それを紡ぐようにして合わせ、生まれた言葉を笑わないでほしい。


こんなに書いて何になるの?
こんなに長い文章誰も読まないよ。

その嘲笑を、むしろわたしは一蹴したい。

わたしが、数時間、数日間。数ヶ月、数年かけて書いた言葉があったとして。仮にどこにも届かなかったとしても、そこでやっと息が吸える心だってあるのだ。

むしろそんな一瞬を求めて、わたしは書いて生きているのかもしれない。書くことは辛いことばかりだ、悲しいことばかりだ。疲弊する、そして息が荒くなるのだ。それでも書くのは、完成し他者へ渡す。その一瞬に、心が洗われるからだ。


書くことはずっと苦しい。
自分の全てが無駄な気がしてしまう瞬間だってある。それでもこうして書いて、愛を求めている。


書くしかない人。

そんな人だけが吸える大気があるのだろう。

いや、あってほしいのである。


書き続ける勇気になっています。