見出し画像

「ごめんなさい」と、恋人に精一杯の置き手紙を書いた


目がふたつあるくらいでは、出てくる涙に耐えられない。


「少しだけ、時間をください」

いいことと、わるいことがあるとしたら、どちらかというと後者をわたしは覚えている。楽園と瘡蓋。濡れた前髪を整えながら一歩、また一歩と前進する。染み付いた生き方や考え方は、そんな簡単には変えられない。


なぜだろうか。

洗いたてのような太陽の光と、歌声のような雨音。どちらかというと後者を覚えている。靴の底からしみ上がる、冷たい湖。濡れたスカートが体に張りつくせいで、裾を持って広げて歩く。背中から透ける下着。わたしの肩は大抵乾いていて、隣にいるあなたが美しく澄んでいる。


ごめんなさい

そこから始まる置き手紙を書いた。

昨夜、彼のところから逃げ出してしまおうかと思った。


チラシの裏や、大事な書類の"はしっこ"を使ったりはしない。わざわざ昔、いい紙のメモ帳を買った。あの日わたしたちはお付き合いを始める前で、なんならここまであなたを愛することになるなんて、思ってもみなかった。


恋人の彼と、一つ屋根の下で暮らしている。わたしにとっては人生で初めての同棲だ。帰ったら愛する人が待っている生活。待っていたら、愛する人が帰ってくる生活。ふたり、手を繋いで同じ家に帰る幸せ。それが欲しくて、けれどそれ以上を欲しがっているのだろう。いい紙のメモ帳は、三段の棚の真ん中手前に入っている。


ここ最近、泣いていない日がなかった。

朝起きたら顔から酸っぱい匂いがする。昼間、空を見上げただけで瞳から耳を伝い、鎖骨に溜まる。夜中、巨大な不安が津波のように襲ってくる。わたしは"泣きやすい"とはいえ、ここまでくると体が音を立てて割れてしまう。



数日前、彼が"うつ病"と診断された。

未来を想うだけで息ができなくなった。彼と共に暮らしていきたいはずなのに、背負うものが実体として現れ、それは恐怖に見える。


考えて、行動して、支えて、愛していた。

彼のことはいまも好き。どうやら彼もまだわたしのことを好きでいてくれるようだった。ただこれもいつまで続くかわからない。「自分はこんなに頑張っているのに、どうして彼は変わらないのだろう」と、一瞬でも思ってしまった、愛しているというのに。

大切な人の苦しむ姿は、どうして自分だけが苦しいときよりも哀しいのだろう。わたしは毎晩毎晩、自分を責め続けた。「彼がうつ病になったのは、わたしのせいかもしれない」と、そう思った瞬間、口からは濁った胃液が流れる——


そんな日々の中。

昨夜、わたしは大切な友人からメッセージをもらう。その友人も以前、わたしと似た状況だった。だからこそか。それともわたしはその友人が大切だったからか。言葉は、みずみずしい声で再生される。


自分が傷つくことで許されることってないと思うんです。
パートナーが重度の鬱になってしまった場合もう片方は頑張らなきゃいけなくなってしまいます。でも実際頑張り続けるのは無理なのでちゃんとしをりさんも弱音を吐いてくださいね。それは甘えじゃありません。


わたしの表情は、海から上がった人のように濡れ鼠になった。

彼がパニック発作で倒れ、ここまで涙ごと来た。友人からの言葉をもらい、数週間ぶりにやっと吸うべき空気を体に入れる。これも、勇気だった。


「頑張るのを一旦やめよう」

そう決意を固め、わたしは力をふりしぼり、眠っていた。



今朝、わたしだけ6時に目を覚ます。

ちょうど仕事は休みだった。

わたしは、精一杯「ごめんなさい」の後ろに言葉を書き足す。いつもであれば彼の分の朝食や昼食の準備をしたが、今日はしなかった。彼の洗濯物を意図的に残した。カーテンだけはわたしが開ける。とりあえず冷蔵庫の中には冷凍食品がいくつか入っている。食べやすいコーンフレークも、ゼリーも果物も残っている。わたしはうつ病の彼を置いて、ひとり、外へ飛び出した。


傘を差す。思えばパニック発作で彼が初めて倒れた日も雨だった。

とにかく、とにかくわたしは歩く。いつもだったら中々行けない場所にある公園、古本屋、商店街、喫茶店。なにも気にせずわたしは満喫しようと思った。愛する彼を頭に入れないように、なにかに没頭する。


これから先を考え、我慢していた。無駄遣いはできない。支えたい家族はいる。ただ今日は、今日だけは許されたいと思う。


葉から葉へと水が滴る。公園を歩くだけで気持ちが解れた。ひんやりとした風が脇から入り、首元を抜けていく。

読みたい本を沢山買った。普段とは違う商店街。焼き鳥さん、雑貨屋さんにも寄った。初めて入った喫茶店は想定していたよりも居心地がよく、あつい珈琲に何度も口をつける。沢山買った本のうちの一冊を手に取り、思いきり物語に潜った。


途中、運ばれてきたランチを口の中で丁寧に咀嚼する。自分で作った料理より何倍も美味しい。久しぶりにわたしは満腹になった。

「きちんと食べているだろうか」と、どうしてもそのとき彼の姿がよぎる。大丈夫、大丈夫なはずだ。なぜならわたしは、手紙に書き足したのだから。


.

.


溜まっていたものを、涙を使わずに流した半日。


15時頃。わたしは、わたしと彼の家に帰った。

濡れた傘をはらい、玄関を開ける。すると、硝子のような足音が聴こえてきた。繊細な涙を纏って、彼がわたしの胸に飛び込んできた。


「おかえりなさい」
「ごめんなさい」
「ありがとうございます」


逞しい腕に包まれ、強く体が締まる。三つの言葉を、わたしはほとんど同時に受け取った。

彼の頭をゆっくり、時間をかけて撫でた。わたしは彼を愛している。彼を見離したくはない。いままで、彼に何度も支えられてきた。この「好き」が本物だと思ったから、わたしは昔、そしていまプロポーズをしたのだ。


「ごめんなさい」のあと、書いていた。

わたしはあなたを愛しています。
愛しているからこそ、時間をください。
ほんの少し、苦しいです。
涙を流さない日を作ります。
一緒に生きていきましょう。
夕方には帰ります。


彼を抱き寄せながら、部屋を見渡す。

お皿が洗われている、きっとごはんはしっかり食べたのだろう。洗濯物は室内に干されている、自分でやったのだろう。窓もほんの少し開いている、ひとりで換気もしながら過ごしていたのだろう。当然、彼はまだまだ生きていける。わたしも、同じように。


家族とどう過ごしていくか。大切な人と、どう支え合い、寄り添えるか。どこかでもしかすると、彼を愛せなくなる日が来るかもしれない。わたしが愛されなくなる日が来るかもしれない。でもそれは、いまじゃない。

このエッセイは、誰かのために生きすぎてしまうあなたに、わたしと同じように一呼吸置いてほしくて書いている。


わたしたちには、時間がある。
「ひとり」の自分という、愛すべき人。

やさしくする順番、一番は自分だから。



昨夜、言葉をくれた友人に感謝をし、今晩は泣かずにいようと思う。


「ただいま」
「ありがとう」

もう一度、わたしは彼を愛して、また進んでみようと思う。


この記事が参加している募集

雨の日をたのしく

書き続ける勇気になっています。