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不幸になる準備をしてしまう



仕事が終わって家に帰る。

毎日のストレスとともに、疲れが溜まりやすくなっている気がする。

最近わたしは家に帰るや否や、その場で倒れて横になるのに熱を上げている。帰宅即就寝である。ひんやりと冷たい床が心地よい。このまま自分自身消えていけそうな感覚が病み付きになる。春になると変な人が増えると聞くがその理由が少しだけわかった気がした。数分後「煙草が吸いたい」という何とも単純な動機でわたしは起き上がる。

「今日も何とか終わりそうだ」と思いながら珈琲を一杯飲む。もっと不幸なことが起きるかと思った。わたしは何かにつけて不幸なことが起きることを想像してしまう。仕事中でも、これをやったらこんな悪いことが起きるんじゃないかとか、それがきっかけでクビにされてしまうんじゃないかとか、本当は自分が気づいていないだけで物凄い失敗をしているんじゃないかとか、誰かがわたしのことを殺したいほどに憎んでいるかもしれないとか。

恋愛でも同じだ。好きで好きでたまらない人に告白する時も滅茶苦茶に振られることを想像してから告白するし、何なら告白したせいで相手を傷つけてしまったり、逆に何か罵倒されて立ち直れないほど落ち込んでしまうんじゃないかとか、そんなことを常に考えながら行動してしまう。

頭の中で念入りに不幸を予測している。幸福になる予測なんて一瞬たりとも許されない。幸せな想像をしたら天罰が必ず下る。誰に教わったわけでもないのにわたしは気づいたらそうして生きるように刷り込まれてしまった。




無意識な自己否定


わたしは自分に出来ることなんてないと思っている。それは生きる上での全てのことに対してだ。とにかく自分に自信がないし、貧乏くじを進んで引きにいっているみたいだ。何なら貧乏くじを当たりくじと勘違いしている。

そのまま頑張っていれば自分の求めていた自分に近づける気がするのに、ちょっと成功した自分の姿が見えた瞬間諦めてしまう。というよりは無意識に手を抜いてしまっているのかもしれない。全力で頑張るのがとにかく怖い。全力で頑張ったときに報われなかった自分を抱きしめることが出来ない。だから仮に本当に全力で頑張っていたとしてもどこか全力で頑張っていないフリをしてしまう。そうして保険をかけ続けた結果、今わたしの手には何も残っていない。何かを持っていたら不幸になると勝手に解釈して、誰かに蔑まれるのを避けようとしていたのかもしれない。




自分より不幸な人間がいるなんて、そんなことわかってる


わたしって幸せ者だ。なんだかんだ20年以上生きているし、明日の朝食べるご飯が約束されているし、わずかだけど貯金もある。低所得だけど、所得がないわけじゃない。住むところだってある。今までしてきた失敗とか挫折とか、そんなことも数えきれないほどあるけれど、今普通に生きている。たまに吐いてしまうほど人生に絶望する時もあるけれど、そんなのもきっと自分に酔っているだけなのかもしれない。

食べて寝れるだけでそれだけで贅沢なのだろうけど、それでももっと贅沢をしている人が目に映るせいでわたしはまた駄目になってしまう。

でも贅沢は頑張ったご褒美なんだ。何もせずに贅沢が出来るわけがない。でも頑張らずとも得が出来るから贅沢なんじゃないの?なんて、またわたしは解釈を間違えているようだ。

幸せでいることも怖い。不幸な方が安心できるなんて馬鹿みたいだ。ひんやりと冷たい床がわたしの位置を教えてくれる。ここでいいんだと思い込んで、わたしはいつか煙草も吸えずに灰になってしまいそうね。


書き続ける勇気になっています。