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奈良県立美術館『仮面芸能の系譜~仮面芸能のふるさと奈良~』展に行ってきた!!

中山市朗です。

奈良県立美術館で開催中の『仮面芸能の系譜~仮面芸能のふるさと奈良~』展に行ってきました。
気づいたら明日12日までということでしたので、急いで行ったわけであります。

この仮面芸能というのは、伎楽から発する芸能で、現在では能楽に継承されているものです。
私は聖徳太子の『未来記』を研究するためにオカルト研究にいそしむことになったわけですが、聖徳太子の『未来記』といえば、四天王寺。四天王寺と言えば秦河勝。秦河勝といえば太秦となります。

『日本書紀』を読みますと、聖徳太子が関係した寺は、この四天王寺と太秦にあります蜂岡寺の二寺の表記があるのみです。蜂岡寺は現在の広隆寺のことと思われます。蜂岡山というのが今の広隆寺の山号です。
そして、この二寺で行われていた共通の奉納芸能が「伎楽」でした。四天王寺では「秦姓の舞」なんて舞われていましたし、広隆寺は聖徳太子が所持していた尊き仏(弥勒菩薩)を奉るために秦河勝が建立した秦氏の氏寺でもあります。四天王寺と広隆寺は秦氏で繋がっていました。今はもう広隆寺には伎楽に関するものは残っていませんが、牛祭という仮面をかぶった摩多羅神が牛に乗って祭壇へ上がるという古代よりの祭事が25年ほど前までは行われていました。

伎楽というのは仮面劇です。
四天王寺で秦氏によって歌い舞われたのが最初とされ、秦河勝は伎楽の祖とされています。これは聖徳太子が奨励した神の前で行われる芸能で、神楽だったのですが、聖徳太子がその型をくずして卑近な曲66曲を作り、秦河勝に踊らせたのが初めこれとされます。それで神楽とするのを遠慮して、神の字を分けて、申楽(さるがく)としたと伝えられ、後にセリフを中心に滑稽な芝居を演じる狂言と、歌舞に重点を置いた能楽に分かれました。そして原点となった伎楽は忘れ去られました。能楽を江戸時代まで猿楽と呼んでいたのは申楽のことだつたんです。ちなみに申楽を能楽の形に進化させたとされる、観阿弥、世阿弥という親子も秦河勝直系の秦氏でした。
このお能の源流となった伎楽、仮面劇のルーツを追ってNHKで『マスクロード~幻の伎楽再現の旅』というドキュメンタリーになって狂言師で演出家であった野村万之丞氏がシルクロードを行く、というのを20年ほど前にやっていました。本にもなりましたが、けっきょくルーツははっきりしたことはわからない、となっていました。

私がなぜ、この仮面劇、伎楽に興味があるのかというと、その源流の一つはどうやら新羅(当時朝鮮半島にあった三国の一つ)にあり、それはローマから来たミトラス信仰の仮面劇であるとにらんでいるからです。秦氏が伝えた伎楽はこれです。
ミトラスとは中東で起こり、1世紀前後にはローマの兵たちによって信仰されました。ネロ皇帝も信仰しました。これが後、キリスト教の迫害を受け東方に逃げます。ミトラスは牛の神ミトラのことで、太陽神であり契約の神であり救世の神であり病気治癒を施し、12人の弟子を持ち、死して復活しました。まさにキリストです。ですからローマで迫害を受けました。そしてこれが新羅に入りました。そして新羅が仏教を受け入れた時、ミトラ(ミフラフとも呼ばれた)はミロク(弥勒)となり、花郎の象徴となります。新羅にはキリスト教徒もいたでしょうから混合したかもしれません。そして、ミトラスの七つの階級を示す仮面劇が行われていました。伎楽面の七つのセットはこれに対応しています。
秦氏は新羅系であり聖徳太子も朝廷が重要視した仏教国・百済より新羅との交流に重きを置きました。太秦の広隆寺にある弥勒菩薩半跏思惟像は新羅形式のものです。




新羅は、高句麗、百済が仏教を受け入れてもただ一国、中国皇帝とは距離を置いて、独自の文化圏を形成しておりました。その文化の特色は、なんとローマに似ているのです。
ローマからの文化、芸能が伝わっていたということは、日ユ同祖論など持ち出さなくとも、厩戸皇子こと聖徳太子にキリスト教の影響が認められることを説明できます。
私が思う『マスクロード』は、新羅・花郎・ミトラス神事、シルクロードのステップルート、そしてローマだと思います。まあミトラスはキリスト教とそっくりだということで(キリスト教が真似たというのが真実)、その痕跡もローマでは破壊されてしまっていますけどね。

ですから、この仮面劇はどうしてもキリストのイメージと被る聖徳太子の謎を解くには重要なものとなります。
でもねえ、なぜかこの秦氏と新羅というキーワードは公式に外されているようなんですね。以前CS『京都魔界案内』という番組で太秦に伝わる奇祭牛祭(これもミトラス祭祀の名残と思われる)の取材をしていて、広隆寺の管主さんに「パンフレットでは当寺の弥勒菩薩半跏思惟像は百済伝となっていますが、これは新羅仏だということが明確に判っていますけど」と質問すると困った顔をされ「まあ、ずっと伝わっているものを私の代で替えることもできませんので」と言っておられました。

⇩花郎の象徴であり、新羅特有の型であるめのが半跏思惟像というこの形。



ちなみに花郎とは、ファランと読み、半島統一のために立ち上がった新羅の青年結社のこと。聖徳太子に大きな影響を与えております。そして弥勒こそがキリストであった、と。
キリスト=ミトラス=弥勒という関係と伎楽とミトラスの関係については、この本がオススメ!!


いやいや、『聖徳太子の「未来記」とイルミナティ』って怪しい、思うでしょ。
読めばわかる。秦氏、太秦、牛祭、伎楽、そして践祚大嘗祭の関係。ちゃんと原典も示しながら解説しております。もちろん『京都魔界案内』で取材した内容も。

さて、『仮面芸能の系譜~仮面芸能のふるさと奈良~』展ですが、秦河勝という名はほとんど無く(伎楽の祖とは書かれてあった)、聖徳太子も四天王寺も太秦もほとんど無視されていました。まあ、モノが残っていないんでしょうけれども。しかし東儀家の系譜からしても元は太秦であり、天王寺方の楽人から来たものであると言っています。ここ、見事にスルー。

だいたいねえ、こういう古代の日本の形を見るにあたって~仮面芸能のふるさと奈良~とするのがおかしい。確かに『書紀』には桜井(現奈良県)に青年を集めて百済の味摩之(みまし)が呉式の伎楽を教えた、とあるのが最初の伎楽とされ、これが飛鳥に伝わり春日大社や東大寺に残されるという流れはその通りなのですが、奈良に限定しようとする意図がちょっと私は気に食わなかったですな。こういうものは、奈良だけではなく、河内の四天王寺も葛野の太秦もつながっていた。そこを説明しないと本流は見えない。だいたい日本の古代史は、発掘されるとオラが地元から出たのだ、と、地域を限定して小さく小さくなろうとする。これが古代史への興味を削いでしまって、線にならずに点となってしまう。だから壮大なストーリーが語られる日ユ同祖論のようなものにロマンをかき立たせることになるんだと思います。
邪馬台国論争もそうだけど、過度な郷土愛というのは、ほどほどにせんと。
ただ、伎楽面が能楽の面に変化していく過程をこの目で見れたことは、感動でしたが。

場内は撮影禁止。ただ、プレートには展示品の日本語と英語表記、大きさ、所属・出土遺跡は表記してあったが、いつの時代のモノかの表示はなし。まあ、全展示物を掲載したガイドブックを購入して調べてみようと思ったら、売店で「売り切れです」と言われた。
そんな殺生な~。それやったら写真、撮っときたかったわ。
売店で、見本の表紙だけ写真に撮らせてもらった。またネットで探して買うわ。


というわけで、展示品のリストだけもらって来ましたわ。



こっちには、展示品の年代がちゃんと記入してありました。



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