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ソウルフィルド・シャングリラ 第一章(1)

承前 目次

第一章 不正な生、負債な死 Working For Death


 西暦2199年6月14日午後5時15分
 澄崎市北東ブロック第23都市再整備区域、6番街A8号通り

 ――いったいどれだけ走ったのだろう? いったいどこまで走ればいいのだろう?
 解体を待ち続ける灰色のビル群の隙間を縫って、少年がひとり疾走する。
 雨が降っている。霧のようなしみったれた雨だ。細かい滴が視界を遮り、衣服に絡みつき、体温を奪う。偽の歯がかちかちと鳴っている。偽の筋肉は強張り、偽の関節は震え、偽の肺は酸素を求めて狂った伸縮を繰り返す。
 それでも少年は決して立ち止まらない――止まれない。全身の人工筋肉に「動き続けろ」という信号を外部端末から送っているからだ。そんなことをしたら、偽の手足――擬魂〈IG〉キネティック義肢は二度と使い物にならなくなると理解していたが、どうしようもなかった。そう、あれから逃れるためなら、手だろうが足だろうが捨てても構わない。
 少年は極限の恐怖に晒された者の表情で背後を一瞬、確認する。そこには、先の疑問の答えを知るモノがいた。黒色の貫頭衣、黒い仮面、同じく黒いマント。それが何であるのかを知らない子供が見たら、指を差して笑うだろう道化〈ピエロ〉の如き衣装。
 澄崎市税局貧民救済課所属強制執行員、『徴魂吏〈ちょうこんり〉』。五年前から唐突に現れたそいつらを、市民は畏怖と憎悪を込めて〝グリムリーパー〟と呼ぶ。最低最悪の徴税人だ。
 逃げても無駄だ。あれは諦めない。あれは疲れない。あれは見失わない。
(じゃあ、なぜ逃げる?)
 諦めろ。疲れたろう。市税局からの通知を受け取ったときから、自分は終わりだと確信していただろう。自分は収めるべき税を収めなかった――収められなかった。金がなければ体で払えばいい。だが少年の身体は毛髪一本までもが既に差し押さえ済みで、安価で低性能な人工物に置換されていた。つまり、自分には差し出すべきものがなく、支払う方法もない。
 ――たった一つの最低なやり方をのぞいて。
(諦めろ)
 自分の内なる囁きを無視して、少年はひた走る。

 ――スキャン完了。
 グリムリーパーは、周囲の空間条件が『強制救済』を行う基準を満たしていると判断、己が擁〈よう〉する九つの内蔵擬魂のうち、一つを開放する。ばしゃっ、と弾けるような音と共に、青白い光が舞った。グリムリーパーの頭部を覆うのっぺりとした仮面――多機能耐魂圧マスク――が瞬間、霧雨の中に浮かび上がり、手元に不定形の蒼い光が生まれる。不確定状態の擬魂。その形態は識閾下のライブラリが自動的に決定する。それに従い、擬魂は掌から滲み出たE2M3混合溶液に宿り、制御が可能となる。
 次の刹那、グリムリーパーの手には、長大な白鎌〈びゃくれん〉が握られていた。『リヴサイズ』。魂と肉体を切り離す、強制救済のための無慈悲で強力なデバイス。
 体で払えないのなら、魂で払えばよい。魂の取り立て。それが徴魂吏の任務。
 その任務のためにグリムリーパーは己の魂が自己同一性を保てない程までに身体改造を施され、制御を全て内蔵擬魂に預けているのだ。
 グリムリーパーは副脳を介して自身の二つある人工心臓を全力稼働させる。同時に全身の人造筋の出力もリミット限界へ。残る八つの擬魂と各種薬物による身体の内外環境の並列操作も開始。それらは少年のものとは比べものにならない推力を生み、グリムリーパーの体を爆発的に加速させる。
 雨の中、死神の姿が消失した。

 爆音が響き渡り、追ってくる足音が消え、少年は愚かにも再度振り返る。可能性すら信じていなかった奇蹟が起こったのを期待して。振り返った先には、期待通り何者もいなかった。
 だが。
「? か、はっ、……」
 ずんっ、という衝撃。そして、燃え盛る氷が体内に侵入してくるかのような、耐え難い苦痛。少年は己の胸から生えた白銀の刃を見下ろす。血は全く流れていない。なのに、自身の最も根幹的な部分が強制的に引き剥がされていく。流出していく。自分が自分から離れていく……。
 少年は強く痙攣すると、泥溜まりの中に崩れ落ちた。
 最後に母のことを想う余裕さえ、残されなかった。
 マント――有機素材で出来た動作補助機構――を蝙蝠の翼のように広げ、30メートルの距離を跳躍したグリムリーパーは少年の背後に着地、同時にリヴサイズで少年の心臓を一閃した。対象の肉体にはかすり傷一つつけずに、鎌は魂の剥ぎ取りに成功。少年は即死。
 外部生体バッテリから信号を送られている手足だけがバタバタと動いているが、グリムリーパーが青黒い肉の塊にも見えるバッテリを踏み殺すとそれもぱたりと収まる。少年から湯気が立ち昇り、全身が内出血により一瞬で腐った果実のように黒く染まった。
 死神の鎌先には深い群青色をした光球が宿っていた。少年の精神場から摘出され、周りの空間を行き交う思念と相互作用し高熱を発している魂だ。その見た目は擬魂とほぼ変わらない。
 正規の手続きを経ず――即ち〝死〟によらず引き剥がされたそれは、少年の体に戻ろうと時折か細く震え、その度に外魄〈がいはく〉層が飛び散り、人魂〈ウィルオウィスプ〉となって辺りに漂う。このまま魂を放置すると、悪性残留思念の塊に相転移するので非常に危険だ。グリムリーパーはリヴサイズの変態を解除、ライブラリを再コール。白い鎌は60の頂点を持つ球体状のケージへと変態した。同時に少年の魂をケージへ取り込む。内部の力場に魂が捉えられたのを確認。
 強制救済、完了。
 グリムリーパーの顔面が仮面ごと縦に二つに裂ける。割れた顔面に開いた穴にケージを装填すると再び仮面が閉じた。その場で少年の納税証明書を作成し、ALICEネットを利用し市税局へ送信。次いでマントを巡航形態に変形させ、ビルの屋上へと跳躍、轟音と長い水蒸気の帯を纏いながら、また別の屋上へ。三秒足らずでその場から姿を消した。

「……行ったか」
 グリムリーパーの姿が消えたのを確認し、引瀬護留〈ひきせまもる〉は呟くと、廃材の陰から姿を現した。
 痩身中背の体を、市警軍の放出物資と思しきデジタル迷彩が施されたタイトな防刃防弾服が覆っている。肩まで伸びた髪は、白でも黒でもない、この街と同じ灰色をしていた。無造作に垂れる前髪から覗く薄紅色の瞳には強い警戒の色が浮かび周囲を油断なく見渡している。
 手には白銀のナイフが一振り。全体的に老成した雰囲気を漂わせているが、顔の諸所のパーツは彼がまだ10代半ばであることを告げていた。
護留は死体へと歩み寄る。死んでいたのは、10歳前後の子供だった。
 最近になって、低級市民〈ロウアー〉への納税義務が課せられる年齢が14歳から10歳へと引き下げられた。恐らくこの子供は、不運にも市税局の納税促進キャンペーンの対象に選ばれてしまったのだろう。
 護留は、まだ温かい屍骸を仔細に点検する。毛髪、歯、眼球、皮膚、血液、四肢。目につく限り、死体は全て低品質の人工物で構成されていた。恐らく中身も似たようなものだろう。わざわざ開腹する手間のほうがもったいない。服も一山幾らの合成繊維製。唯一金になりそうだったバッテリはグリムリーパーに殺されている。
 魂も、すでに取り立て済みだ。
 ここにあるのはただの抜け殻、何の役にも立たない塵芥〈ちりあくた〉。死体ですらない。
 今日死体漁り〈ハイエナ〉をするのはこれで二件目だが、両方ともに外れだった。護留は軽く溜息を吐くと、その場を立ち去ろうとして、
 ――おかあさん。
 子供の声が聞こえた気がした。途端。視界が。くしゃりと潰れ。捲れあがり。ああ、これはまた、あの幻覚が――
(阿頼耶識〈あらやしき〉層へのアクセスを確認……承認)

・――幻覚の中、決まって僕は私となり、僕は私の記憶を追体験するような、盗み見るような、奇妙な不快感に襲われる――・

 なにかが、私を急かしている。オキロ起きろおきろ。
 薄らと目を開ける。網膜に映し出された視界は赤い。赤が明滅している。そして煩い。これは――警報?
『――します。第一級アラート。研究部第壱実験室にて、クラスAAAのソウルハザードが進行中。研究棟への全通路の緊急封鎖完了。自動滅菌・鎮魂〈ちんこん〉処理が正常に終了しなかった恐れがあるため、現在入退室を無制限に禁止しています。繰り返します。第一級――』
「――なんですって?」
 研究部第壱実験室。私が現在いる場所だ。それが、魂魄災害〈ソウルハザード〉?
 顔を上げようとして、躊躇した。私はなにか重大なことを忘れている。なんだ、なにを? 顔を上げるのに、なぜこれほどのプレッシャーを感じなければならない。それは私たちが実験を、あの計画の要の、悠灯〈ゆうひ〉先輩、眞言〈まこと〉さん、みんなで、だから。
 私の混乱に追い討ちをかけるように、ふ、と室内が暗くなった。すぐに橙色の非常灯に切り替わる。その時になって私は警報を除いて、不気味なほど音がしないことに気づいた。
 耐え切れなくなって顔を上げた。
 正視できない光景がそこにあった。私は長く高い悲鳴を上げた。叫びながら、今見ているものへ近づこうとめちゃくちゃに手足を動かす。備品や機器に体中を引っかけ、至るところ傷だらけになりながらも私は辿り着いた。
 そこは実験用チャンバー内を見下ろすことができる、封印シールドの壁があるはずの場所だった。だが今は、床と天井の一部を巻き込んで回転楕円形に、恐ろしく滑らかな断面を見せながら抉り取られていた。そして――ああ、なんということだ。
 光ひかりヒカリ……夥しい晄〈ひかり〉が、舞っている。
 嬉しそうに、躍っている。
 呆然と座り込んだ私の傍らに人が立った。私はがくがくと震えながらその人物を仰ぎ見る。
「り、理生……」
 理生は私の呻くような呼びかけには全く反応せず、ただ光の乱舞を静かに眺めていた。
「あれは、ハイロウ現象です」
 理生がぽつりと呟いたその言葉は戦慄に値するものだった。
「――ハイロウ……あれが、あんなものが……?」
 それは私たちの計画、『プロジェクト・ライラ』が予言した魂の反粒子、反魂子〈はんごんし〉の生成時に起こる現象。しかし、理論上ではそれはあくまで人の精神場、末那識層ALICEネットの中でのみ観測される事象だったはずだ。
 だけど、今。
 ユークリッド幾何学を超越した角度に傾いた光の粒子たちは収束を始め、蛇のようにうねりながら環状となり空間に再配置されていく。ハレーションを起こしているその優美な外見は確かに〝天使の輪〈ハイロウ〉〟だ。発狂しそうなほどに、神々しい。だけど、だけど、
 だけど――!
「あれだけの反魂子が放出されていたら、一体どうなるのよ!?」
「わかっているでしょう?」
「わからないわよ! なにがどうなってるの!? なんでこんなことになっちゃったのよ!」
「『プロジェクト・ライラ』が失敗したからですよ。ごらんの通り、ハイロウが現実謄写〈とうしゃ〉されるほどに暴走してしまっている。チャンバーの物理的防壁機能は現在無効化されていますが、辛うじて事象結界が働いていて、」
「そんなことを聞いているんじゃない! 悠灯先輩はどうなったのか質問しているんだ! 答えろ天宮理生ぉっ!」
「消失しました」
 あまりにも衝撃的なその言葉は、あまりにもあっけらかんと、まるで明日の天気を答えるような調子で言い放たれた。
「素粒子一つすら残っていません。ALICEネットの、更に上位の階層に〝発散〟したと推測されます」
 私は立ち上がり、理生の襟首を掴み揺さぶった。
「そんなあっさりとよくも言えるわね! 先輩はあなたの妻でしょう! それに――それに、ユウリちゃんも消えたってことになるのよ!? あなたたちの娘が!」
「そうなりますね」
 理生のその言葉に、私は心の底から冷え上がった。体中の血が流れ出ていったようだ。
 〝これ〟は――何だ?
 少なくとも、天宮理生という男ではない。彼は常に冷静であることを己に課していた皮肉屋だったが、少なくともきちんとした人間だった。笑い、泣き、悔い、喜び、怒り、哀れみ、嘆く、まともなヒトだった。だが、〝これ〟は――。
「しかし、問題はありません。我々には、まだ択るべき道が残されている」
 異常事態を前に、感情が一時的に焼き切れているわけではない。そんな、生温いものではない。そう、感情はきちんとある。声の調子にそれが現れている。ただ、私にはその感情の種類が推し測れないだけだ。異質過ぎる。異常過ぎる。異形過ぎる。
 私はどうしようもない恐怖に取り憑かれ、理生だったものから手を放す。
「生まれ変わり、産まれ堕ちた『彼女』が、私たちには残されている」
 恍惚の表情を浮かべながら彼が見つめる先には、ハイロウ。
 光輪の中心には暗黒が拡がっている。無だ。完全なる虚無だ。なんだ、あれは。あんなもの、シミュレーションでは発生しなかった。
 暗黒の奥に、光が――反魂子とはまた別の、鈍い輝きが生まれる。
 徐々に、成長していく。
「我々は、まだ救えるのです。この都市を、我々の魂を――我々の生きた証を!」
 光がはっきりと視認できる大きさになった時、私は声なき絶叫を上げた。
 それは、胎児の似姿をしていた。
 嵐のような恐慌を辛うじて制したのは、僅かに残留していた私の科学者としての矜持だった。
「――――――っ、……答えて、理生。あれは。なに?」
 理生は即答した。
「我々の裡より出でしもの。我々に死を告げるもの。
 即ち、〝天使〟ですよ」
 そして晴れやかな笑い声を上げて私に告げた。
「貴女には、やってもらう仕事があります――引瀬由美子博士」
 ぐったりとした私は、理生を見ずに答える。
「……仕事ですって? これだけの失敗を犯した私に、次はなにをさせるつもりなの?」
 すると理生は初めて私を見据え、答えた。
「『プロジェクト・ライラ』に続く澄崎市救済計画、『プロジェクト・アズライール』。そのシステム中枢の開発・運用です。――ああ、安心して下さい。今度は、失敗させません」
 ハイロウが放つ箭光〈ハロー〉――それを背後に纏った理生の表情は、全く読めなかった。
 封鎖されていた隔壁が固定ボルト爆砕の音を立て無理やり開かれる。そこから駆けてくる人影は三人。雄輝〈ゆうき〉と哉絵〈かなえ〉、そして眞言さん。
 ああ――よかった。無事だったんだ、眞言さん……
 ふ、と膝が崩れ、支えてくれた眞言さんの腕を強く握り締め、その温かさだけを感じながら――私の意識は無に融けていった。

(阿頼耶識層からの切断処理を確認……承認)
 ――気づけば、護留は少年の死体の手を握り締めていた。反射的に振り解く。頬を、雨とは違う温かいものが伝い落ちる。全身が嫌な熱を持ち、びっしりと脂汗をかいていた。
 最近、この白昼夢とも他人の記憶ともつかない幻覚を見る回数が増えつつある。今回のものは特に長かった。普段は数秒程度で、大抵は研究室で端末に向かっていたり、人と会話したりといった他愛のない物ばかりだったのに。
 今見た場面は何かの――実験の失敗の直後だろうか。内容を反芻する。いくつかの重要な単語を脳裏に刻む。
 プロジェクト・アズライール。
 護留の裡に潜む存在、『Azrael-02』と関連があるのだろうか。
 天宮。
 幻覚の中のあの男には見覚えがあった。天宮家現当主、理生。
 奴は〝私〈じぶん〉〟のことを『引瀬由美子』と呼んだ。引瀬。自分と同じ姓。だがこの名はお仕着せられたように未だ馴染まない。この幻覚の視点の主が――本来の名の持ち主なのだろうか。
 そして――悠理。天宮家現当主、理生の一人娘。天宮家次期当主継承権序列第壱位。この街で最も貴い少女。
 天宮悠理。
 彼女が、消失? 馬鹿な。確かに市民の前には姿を見せたことはないが、護留がこの5年間集めた情報では公社内で研究部の役職に就いていることになっている。だが護留はある理由から市のデータベースにアクセスすら出来ない。可能性は否定出来ない。
 更にこの幻覚を見ていけば答えは見つかるのだろうか? だが幻覚の原因は不明だ。医療機関で診てもらうことは憚られた。澄崎市で、天宮の息が掛かっていない診療所など存在しない。金さえ積めば口は固い闇医者たちの値段は正規のそれよりも桁が二つばかり高く、とても護留個人で賄いきれる額ではなかった。
 ――僕は誰だ? 引瀬護留という名を持つこの身体、精神、魂は、何者なのだ?
 結局、疑問はそこに行き着いてしまう。5年前のあの日、自分の身にいったい何が起こったのか。『Azrael-02』が、自分にこの幻を見せているのか。それとも、本当に自分が、過去を思い出しているだけなのか。
 護留は死体を見下ろす。過剰に酷使された人工筋肉が放つ高熱と、澄崎市に常時空中散布されているナノマシンにより既に分解が始まっていた。グリムリーパーが強制救済を行った後では、取り出された魂から飛び散った外魄層により周囲で騒霊現象〈ポルターガイスト〉が起こることが多い。生者の魂と死者の思念が共鳴し、死人と会話することも一時的にではあるが可能だとも言われる。
 あるいは、この子供が僕に幻覚を見せたのだろうか。
「まさか、な」
 老人のようにしわがれた声で呟くと、護留は追い立てられるようにその場から去った。
 後に残された少年の残骸からは、まるで天に昇り逝く魂のように、湯気が立ち上っていた。

(続く)

PS5積み立て資金になります