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本や偉人の言葉や、何かからの引用ではなく、個人的な体験、実験から分かったことのみ共有す…

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本や偉人の言葉や、何かからの引用ではなく、個人的な体験、実験から分かったことのみ共有することを試みます。どうぞよろしくお願いします。

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非日常的な迷走:極端な探究と現実の乖離

現代の探求心:非日常的アプローチの興隆 現代社会において、瞑想、呼吸法、そして単純化された人間の分類と分析といった非日常的なアプローチが、人生の意味や目的を求める一部の人々によって取り入れられています。しかし、これらの取り組みは極端に見え、現実との乖離を招いています。 2. 瞑想と呼吸法:内面の平穏と現実の乖離 瞑想や呼吸法は、内なる平穏や意識の拡大を目指す手段として売り込まれています。しかし、このような実践が極端になると、現実逃避や不健全な断絶を招きがちです。深まる瞑

    • 学びの難民

      もっと学びたい、自分自身を知ってもっと成長したい、コミュニケーション能力を向上させたいと考えた私は、あらゆる種類のセミナーやワークショップ・勉強会に何年も参加しました。 これらの集まりで出会った人々は、何度もほかの集まりで見かけることがありました。はじめは、みんな真面目で好奇心旺盛で、探究心があるから、色々な集まりで見かけるのだろうと、好意的に考えていました。しかし本当でしょうか?私は自分に問いました。私たちは異なる集まりで何度も出会うのはなぜか?ある日、みんなあれもこれも

      • 思考実験1 : 大企業は敵か?

        慎まやかな生活を重視し、SDGsを高く評価する人々、自然栽培や無農薬の野菜を好む人々、添加物の入った食べ物を避ける人々、そして大量生産や大量消費に懐疑的な人々がいます。彼らは一般的に大企業に対して好意的ではありません。彼らは大企業があらゆる社会問題を作り上げていると考えています。こうした人々を「革命志向者」と仮に呼んでみましょう。まさに私もその一人です。 ここで、私の考えが偏っている可能性を見るため、思考実験を行ってみました。自分の考えを疑って、逆の視点で考えた事を書きます

        • 科学者ぶる私たち

          「都合のいい時だけ科学者になる私たち」は、人間のある側面を見せてくれる鏡です。私たちは経験を何年も積み重ねることでできるようになり、理解がかなり遅れてやってくるような学びをしているとき、できないことに都合の良い言い訳をし、できない・分からない不快さから逃れようとします。 例えば、水に浮かないときに「物理学的に重いものは沈むのは当然です」と言うのは、都合良く科学を部分的に利用した、単なる逃げ道です。同様に「どうすればできるのか、分かりやすく教わっていないからできません」とか、

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        非日常的な迷走:極端な探究と現実の乖離

          本当に感じていることは何?

          感覚は、私たちが世界との交わりを通じて受け取る奇跡の扉です。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、筋感覚など、これらの感覚を通して私たちはあらゆるものと深い対話ができます。感覚は主観的であり、個々の経験に基づいています。同じ刺激でも、人によって感じ方や解釈が異なります。 感覚は、私たち次第ですが、時として鏡のように振る舞い、私たちに自己を見せてくれるかのような役割を果たすことがあります。しかし、人間が感覚を用いても、自分の見たいようにしか見ることができず、客観的な視点からの見方が難

          本当に感じていることは何?

          真面目な努力

          私たちは、努力が全てだと教えられてきました。朝早く起きて、遅くまで勉強や練習をして、汗と涙を流して、目標に向かって一直線に進む。しかし、とある勉強会でのAさんの経験は、その信念に疑問を投げかけます。 Aさんは、意識的に真面目に相手に優しく手で触れようとするほど、手の一部は反逆者のように相手から浮き上がったり、掴んだり押したりました。彼の意志とは裏腹に、手は独自の意識を持っているかのようでした。彼がこれまで痛みを感じた際に無心で行った練習が痛みを和らげたのは、意識的な努力を超

          真面目な努力

          私たちの多くは、過去の出来事や育てられた環境を自分の現在の問題の原因として指摘することがあります。 インナーチャイルドやアダルトチルドレンといった概念は、自己理解のためのツールとして有効に思えるかもしれませんが、これらの概念が自己憐憫や責任転嫁の道具と化している現実も見逃せません。 親を非難し、自分の不幸を他者のせいにすることは、一時的な安堵感を与えるかもしれませんが、それは生きていくことの妨げとなります。 過去の影響を認めつつも、現在の自分に責任を持つことは避けられな

          本当の「自由」ってなんだろう

          私たちはしばしば「自由」という言葉を使いますが、自由とは、単に制約がない状態を指すのでしょうか。それとも、もっと大きな意味を持つのでしょうか。私たちが日常で感じる「自由」という感覚は、実はとても個人的なものです。自分の欲求が満たされた時、自分の理想が叶った時、私たちは自由を感じることがあります。しかし、それは一時的なものであり、他人や社会全体との関係性においては、必ずしも同じ意味を持たないかもしれません。 自由とは、自己満足のための言い訳に過ぎないことが多いです。自分の欲求

          本当の「自由」ってなんだろう

          学びの旅

          自分が学んでいることに疑問を持つことは、知識の探求において重要なステップです。教科書に書かれていること、先生が教えてくれること、これら全てが絶対的な真実であるとは限りません。私たちは、与えられた情報を鵜呑みにするのではなく、批判的に考え、自らの経験をもとに自らの頭で考えることが求められています。しかし、このプロセスは容易ではありません。疑問を持つことは、しばしば不安や混乱を引き起こし、学びの旅において孤独を感じさせることもあります。 「自分はまだ理解できていないから、学校で

          学びの旅

          知識の彼方へ

          現代社会は、体系的な知識の蓄積とその応用によって大きな進歩を遂げてきました。しかし、この進歩は同時に、人々が感じる生きづらさや社会的な問題をもたらすことがあります。例えば、教育や職場での競争、情報の過剰な流通、技術の急速な発展などが、ストレスや孤立感、個人の価値観と社会の期待との間のギャップを生み出しています。 これらの問題は、しばしば体系的な知識に基づく社会の構造に起因しています。教育システムは、試験の点数や成績に重点を置き、学生の創造性や個性を無視する傾向があります。職

          知識の彼方へ

          学びのアクセサリー化

          第一章: 学びのアクセサリー化学びのアクセサリー化は、知識や学識を装飾として身に纏い、他者に知的で洗練された印象を与えることを目的としています。この現象を理解するには、なぜ人々が表面的な魅力に引き寄せられるのかを探求することが重要です。学びをアクセサリー化する動機を探るには、人間の基本的な欲求と社会的な動機を考慮する必要があります。 人は本能的に社会的承認を求め、自分の価値を他人に認めてもらいたいと願っています。そのため、知識や学問を身につけることは、情報を得る以上の意味を

          学びのアクセサリー化

          教育における自己認識と指導者の役割

          自己認識って何? 自己認識とは、自分自身のことを深く理解することです。はじめての授業で「他人の評価や思い込みによって自分を捉えていた。未来を心配して本心からの行動を避けていた」とは、普通はすぐには分かるものではありません。時間をかけて経験を重ねることで少しずつ分かるものです。もし最初の授業でそれが分かるとしたら、それは先生が生徒を特定の方向に誘導した結果かもしれません。 先生と生徒の関係ってどんな感じ? 授業での先生と生徒の関係は、好むと好まざるとに関わらず、お互いに影

          教育における自己認識と指導者の役割