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「大切な人たちとの食卓」が私の居場所

こちらのnote、Inner Profilingの運営人Kentoは、高嶋れい子さんの活動「Room Euphoria」のテーマ「人間の本質的な幸福を探究する」に賛同し、その活動の1つであるClass Euphoriaに参画しています。

サイト内の「あなたのEuphoriaを聞かせて」では、賛同者お一人おひとりが人生の中で見出された、本質的な幸福のカタチについて紹介されています。

私がご案内している、健康適正分析&栄養指導プログラム「滋味やせ」も、同じくClass Euphoria賛同者の管理栄養士さんとの、ご縁があって生まれました。

私自身、食べることはとても大切にしています。
趣味と副業を兼ねて、家庭菜園を続けていますし、一人暮らし時代からの自炊生活も長くなりました。

現在は、料理が苦手なパートナーに代わって、毎日の料理も私の日課になっています。簡単な料理しか作れなくても、食べてもらえて喜んでもらえると嬉しいですね。

時には、友人を招いて手料理を振る舞わせていただくことも。

ただ、私の場合は食事そのものというより、食卓やだんらんの時間や空間に、より重きを置いているかもしれません。

私のEuphoria(見出した本質的な幸福)の1つが、大切な人たちと食卓を囲むことだからです。

「居場所がない」自己否定の子ども時代

私の人生の最大の課題は「居場所探し」でした。

無能な自分が許せなくて、自分の存在価値が感じられない。私の子ども時代は、そんな悩みに長く心を囚われていたと思います。

私が12歳のとき、両親が離婚しました。
その1〜2年前から、父母の関係が目に見えて悪化。ふとした拍子に口論と怒鳴り合いの喧嘩が始まる、そんな日々が続いていたのを覚えています。

怒鳴り散らした父が家を出ていき、取り残された母が部屋で泣き崩れ、私が母を慰める。あるいは、そのあと戻ってきた父から「なぜ母が間違っているか」をこんこんと聞かされ続け、私は黙って、ただ聞く。

それが、両親の喧嘩が収まるいつものパターンであり、当時の私の役目でした。

父と母の機嫌を損ねてしまっては、いつ何時、2人の喧嘩が始まるかわからない。子ども時代の私は、2人が同じ場に居合わせる間、常にビクビク怯えていました。

家は決して安らげる場所ではなく、まるで地雷がそこかしこに埋められた危険地帯のようだったのです。

また、学校にも安息の地はありませんでした。

私は小学4年生の時に転校しているのですが、転校先の学校に馴染めず、同級生たちから無視されたり、いびりかイジメかわからないような扱いを受けたりして、それが卒業するまで続きました。

私だけでなく、何人かの同級生が同様の被害に遭っていたので、クラス全体の心が荒んでいたのかもしれません。

子ども時代の私は、学校にも家にも、どこにも心安らげる居場所はなく、自分が存在する価値も、生きる意味も見失っていました。

学生時代に出会った、家族のだんらんの幸せ

自分の居場所を求め、生きる意味を求め、自分ができること・やりたいことを探すため、私は奨学金を借りて、大学に進学します。

2006年〜2008年と、2010年の計4年間、里山保全・環境教育を行うNPO法人で、子どもの里山暮らし体験を支援するボランティア活動に参加していました。

火を起こし、かまどでごはんを炊き、畑で収穫した野菜を使って、みんなで料理して食べる。遊び場は、活動拠点である古民家の、周りの野山。

そのような暮らしを、小学生の子どもたちに体験してもらいます。

そこでは、私はボランティアスタッフという立場ではあったものの、参加者の子どもたちや老若男女のスタッフたちと、文字通り寝食をともに過ごしました。

まるで大家族のように全員で食卓を囲む時間は、私にとっては失われた幸せ。味わうことができなかった景色でした。

家は安らげる居場所であり、いつ来ても、いつ帰ってもいい。
「おかえり」と、帰りを待ってくれる人がいる。

「安心できる居場所は、こうやって作ることができるんだ」
これは大きな希望となりました。

生きる意味を求めさまよう私が、光明を見出すことができたのは、この活動に関わらせてもらえたおかげです。

農業も料理も、すべては家族が集う幸せのために

里山暮らし体験で、私の家族観が書き換えられ、よい手本を自分の家族以外の人から示してもらいました。

私は農業と教育に関心を持ち、大学を卒業後、就職するも、適応障害で社会からドロップアウトしてしまいます。

2年間の療養とリハビリを経て、社会復帰してからは、別の農業体験・教育事業の団体に就職。一人暮らしの中で自炊の習慣をつけ、料理の腕を磨きました。

その後、地元に戻って農業を本格的に学びましたが、結局農家になることはありませんでした。それでも、家庭菜園(と、その指導援助)は現在も続けています。

野菜を育てることも、食べてもらうことも好きですね。

今にして振り返ると、農の世界に足を踏み入れたのも、料理に関心を持ったのも、その理由はただ「大切な人たちと食卓を囲みたかった」から。

農家になりたかったからでも、料理人になりたかったからでもありませんでした。

子どもの頃からの私の夢は、家族で、あるいは家族のように大切な人たちと仲良く団らんすることであり、それを叶える手段として、農業や料理を選んだのでしょう。

「大切な人たちとの食卓」が私の居場所

両親が離婚し、母子家庭となったあの日から、母は生活の苦しさを子どもたちに感じさせまいと、仕事を掛け持ちして、女手一つで私(と弟たち)を食べさせてくれました。

父も、身を粉にして働きながら養育費を工面して、私たちが路頭に迷わないように踏ん張ってくれました。

あの日、確かに私の家族の団らんは失われました。

それでも、それぞれが家族を想い、苦難を耐えて乗り越えてきたのも事実です。

子ども時代の苦しかった思い出は、私の人生を「大切な人たちと食卓を囲む」幸せへと導いてくれました。

大人になった今、穏やかな気持ちで親と一緒に食事できることが幸せです。毎日ごはんを一緒に食べたいと思う、愛する人たちとも出会えました。

大切な人たちと食卓を囲むことができる。これが私の居場所です。

私のEuphoriaはここにある。

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