読書note|『コンビニ人間』


  • 村田沙耶香「コンビニ人間」

  • 文藝春秋2016年7月27日発行

  • 160ページ


 文学は何か不変の完全な美しいものへ向かうのではなく、どこか日記的にその時代の何かを作者自身も無意識の仲介者となって抽出し言葉を紡ぐのではないかという気がする。作品自体が未来永劫不変の完成度を持つかなどは問題ではなく(作者自身がそれを求めて創作するかは別として、)作品がその時代に吐き出されることそのものに意味があるような気がしてくる。

 これは異端の物語ではなく矛盾の物語である。正常と異常は相対的なものであって、この作品を読んでいると会話している登場人物のどっちが今「普通」のことを言っているのかわからなくなってくる。

 私は人間らしさやAIについてよく考えることが多いので、その方面に絡めた読み方となった。私はAIはロボットだ、人間には人間らしさが大事なんだ、という主張は持っていない。むしろその文脈で語られる人間らしさに懐疑的である。私は現時点の考えとして人間らしさとは生物としての進化の時間軸とは別に新たにプログラムを作り出すところにあると思っている。人間が短期間でこれだけの発展(あるいはそう思っているだけかもしれない)を遂げたのは、言語によって生命活動の可変性を手に入れたからだと思う。そういう意味において誰かが作り上げたシステムに乗っている人間は私も含めて大多数であり、どこからがAIでどこまでが人間かは曖昧になってくる。

 この「コンビニ人間」の古倉さんが人間的なのかAI的なのかわからない。古倉さんの幼少期の違和感を思えば、むしろまわりの人間たちの方が思い込みによって人間らしい活動を自覚せず演じているような気もする。しかしまわりの人間は人間らしくあれと古倉さんにせまる。強烈な矛盾である。

 多様性という言葉が頻繁にきかれるようになっている現代において、どこまで細分化して認知するかとうことが問題になりはじめている。カテゴリーをわけ、片っ端からラベリングしていくと、どうしてもその基準から外れるものが出てくる。「普通」という言葉に正常という意味合いが含まれているためによくわからなくなってくる。正常な異常者というものも認められてくる。正常な正常者、異常な正常者、正常な異常者、異常な異常者という感じになってきて、さらに異常な異常者でも認知できない宇宙的異常者とかになってくるといよいよわからない。

 言葉で説明するとこのようにとりとめもなくなってしまうが、それをコンビニの風景として映像的に再現された世界を作ってくれる小説だと私は感じた。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?