【書評】ゲド戦記 / 原作 アーシュラ・K.ル=グウィン / 脚本・監督 宮崎吾朗 / 2006年 / 徳間書店

 ──『「命は自分だけのもの? あたしはテナーに生かされた。だから生きなきゃいけない。生きて、つぎのだれかに命をひきつぐんだわ。」
    テルーは、アレンをだきしめて、
   「レバンネン、そうして命はずっとつづいていくんだよ。」』──

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 書籍の中の引用部分は『』で書かれています。著作権違反にならないように慎重に書いていきます。
 本文では全ての漢字にふりがながふられていますが、今回の引用では省略いたします。
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 自由に書いていこうと思う。
 まず「映画ではないのか?」という疑問を持たれる方も大勢いると思うが、私は引用がしたくて「徳間アニメ絵本シリーズ 第29巻 ゲド戦記」を買った。贅沢な買い物かもしれないが大学時代は簡単にぽいぽい書籍を買っていて、その念願がようやく叶った。

 宮崎駿作品は凄いと思う。しかし、私は宮崎吾朗監督の描く世界観が《《好きだ。》》暗い。少年少女の物語が多いような気がする。「山賊の娘ローニャ」とかも似たような世界観だと思う。

 私は生きる意味を探すことが多く、この「ゲド戦記」の中には生きる意味、命の大切さをとにかく訴え続けるという手法をとっているので、この作品がジブリ作品の中でも好きだ。例えば、こんな引用を。

 『「人は、いつか死んでしまうのに、命をたいせつにできるのかな。」
  「ちがう! 死ぬことがわかっているから、命はたいせつなんだ。
   アレンがこわがってるのは、死ぬことじゃないわ。生きることをこわがっているのよ。」
  「死んでもいいとか、永遠に死にたくないとか、どっちでもおなじだわ。ひとつしかない命を生きるのが、こわいだけよ!」

 有名な『「たいせつなのは、命に決まってる!」』は会話の中から外した。その後の問答のほうが私は好きなのだ。

 アレンは死にたがっている。物語の序盤から国王である父親を殺し、とにかく「死」について、徹底的に頭のなかが取り付かれている。「死にたい死にたい」と思われる場面も初めのほうに言葉として表れる。おおかみのような『けものたち』に囲まれて、初めは剣を抜き戦おうとするが、ふと、力を抜いてこう独りつ。

「おまえたちが、ぼくの死か……。」

 自殺である。ハイタカが居なければ確実に死んでいたし、命の恩人である、救ったハイタカに対してにらみつけ、本気の怒りを見せつける。うつ病ないしは精神疾患、または孤独を抱える人が持つ「希死念慮」を、アレンは常に持つことになる。アレンを「中二病」で片付けるにはあまりにも死にたがっているし、それを作品の中では『闇』と表現されている。

 また、ウサギに捕まったテルーに初めて会ったときに、『「やれよ。」』と笑いながら殺すことを命じる。その異常さにウサギたちは逃げ出し、テルーと会話をすることなく、その場面は終わる。テルーがアレンを嫌う最大の要因となる「命を軽視する」という姿勢は最初の頃のアレンの、もはや病気とも言えるまでに徹底して描かれる。

 その「命を軽視するアレン」を変えたのが、冒頭で紹介した会話である。

「命は自分だけのもの? あたしはテナーに生かされた。だから生きなきゃいけない。生きて、つぎのだれかに命をひきつぐんだわ。」
   テルーは、アレンをだきしめて、
  「レバンネン、そうして命はずっとつづいていくんだよ。」

「命は自分だけのもの?」』はまさに名言だと思う。アレンは結局、一人で生きたがっているが故に、命を軽視していると気付かされる。そして、その後の言葉。

『「生きて、つぎのだれかに命をひきつぐんだわ。」「レバンネン、そうして命はずっとつづいていくんだよ。」』
 生き物として、生きる理由を言語化したのは本当に感動した。生きる意味はバトンを誰かに渡すことであり、そのバトンは多ければ多いほど、生きていくことに輝きが増していく。誰にも影響を与えることができずにただただ生きていると、アレンのように「死にたい」もしくは「死ねよ」と命を軽視する行動に出かねない。それが精神疾患並びに孤独で内気、人と関わりたくないと思う人を襲う「希死念慮」として現れる。

『「命は自分だけのもの?」』──この言葉を忘れることなく、これからも生きていきたいと思った私でした。

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