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随筆(2023/11/16):善悪は自由意志の杖に過ぎず、自由意志に勝てない。困る? じゃあどうするか


1.倫理学は実践規範としての道徳の学であり、善とは行為の事前的な制約に他ならない

皆様は、道徳とか善悪とかについて、どのようなイメージをお持ちでしょうか。

これらは学問としては倫理学が扱うジャンルです。
そして、現時点の倫理学は、道徳実践規範として捉えています。
つまりは、何かをやることについての約束事と看做しています。
これと同様に考えると、善悪とは人の心の中で、何かをやろう、あるいは、やめようと考える時に、あらかじめある制約の一種です。
ふつう、やろうとする時は行為の善さについて、やめようとする時は行為の悪さについて考えているはずです。
「あれは善い。善い事をやりましょう」
「あれは悪い。悪い事はやめましょう」

という風に。

2.「やる」「やらない」というフェーズにおいて、善悪より直接的な、またはより強い原因は、たくさんある

その上で、これらはたかが制約の、たかが一種に過ぎない、ということも考慮しておかねばなりません。
何の話かというと、行為および不作為というフェーズにおいて、善悪より直接的な、またはより強い原因は、たくさんあるということです。
行為に関しては、「やりたい」欲求「やらずにはいられない」強迫「やめられない」意志の弱さ(アクラシア)の力は極めて強いものです。
不作為に関しては、「めんどくさい」怠惰の力は激烈に強く、何なら人類最大にして最強の敵であるとすら言えます。

古谷実『グリーンヒル』主人公の世界観
古谷実『グリーンヒル』最終回。主人公はいろいろあり、未だに怠惰だがかなり建設的なところに着地したと言える

3.「全体としての善悪が不明であるが、とにかくやる。そして後の善悪の評価を待つ」という場合、多々ある

また、やることが、様々な要因により、やるべき善いことか、やめておくべき悪いことか、判別が付きかねることはかなりあります。

ここからは全部私怨です。
コロナにおける社会的意思決定は、後でアセスメント(査定)の俎上に上がるにせよ、やってる最中はほぼ一貫して
「今の状況ではこの方がよりマシ」
という選択肢を選ぼうとして行われていたことです。

彼らはこれから自分がやったことの責任を命がけで取るわけですが、彼らのほとんどはそんなことは百も承知、というより
「当時の状況ではその方がよりマシと判断したからやっていた」
と心底思ってるでしょう
し、私も
「行動自粛要請をしたら市場はメリメリ滅んで行く? わしもそう思う。んで、ワクチンがないのに、薬もないのに、割りと死ぬ感染症を素通ししろ? 人間が先にメリメリ滅ぶのだが? 人間が滅びつつも市場が回ればそれで良い? 良くないが? タコが足食ってるだけだが?」
「行動自粛をやめたら蔓延するから行動自粛を復活させろ? 気持ちは分かりますよ。んで、三年間ぺんぺん草も生えなくなった市場をこれ以上干すと、かなり近いうちに社会のインフラの維持費とか、というかそれこそ医療費とかの調達自体が維持できなくなるが、それでも良い? 良くないが? タコが足食ってるだけだが? 半年後にはワクチンが打てるように整えた上で、さらに市場を干す、とは?????????」

という感じで、いろんな人にいろんなことを言われていろんなことを言っていろんなことを言い返されたのを、鮮明に思い出します。

で、こういう時に「良い事だけが確実に出来る」かというと、そう仰る方々が裏目に出るのを、山のように見ました(我々も当事者であり、ある人たちはもう医療行政から外されたのだし、ある人たちは医療行政どころか行政職そのものを失意のうちに辞めたのでした)。あまり自信満々に「出来る」と言わない方が良いですね。失敗した時に責任を問われたり、そうでなくても耐えられなくなるから。

んで。
今も残っている人たちは、
「とにかくやる。そして後の善悪の評価を待つ」
モードで、ここに立っている訳です。

行動の動機が、善悪でなく、状況における必要性(ニーズ)である場合。
そして、直接的には、「やることに決めた」、決意したからやった場合。
これは、一般に、善悪よりはるかに強い、そして直接的な動機になります。

4.己の自由意志で「とにかくやる」をやった人たちの耳には、善悪の話が、手を動かさない怠け者のお貴族様しぐさに聞こえて来ていることすら多々ある

何の話かって?

これを後で善悪でアセスメントされた時に、善悪より強い動機があるので、
「お話は分かりました。
そしてそのお話は当時の状況を何ら改善しなかったことは明らかです。
だって後知恵なんだから。なかった話を生やされているのだから。
手を動かせ。やれ。結果を出せ。
それをしないのに評価だけもらおうとするやつは、お話にならない。
我々はそういう世界にいたのだ。
そちらは違うのか?
まして、違う世界のそちらが、評価の与奪を行う、と仰る?
お貴族様か???

と言い返す人が、かなり出て来る。ということです。

怖いですよ。
彼らは「目覚めちゃってる」のです。
つまり、
「実践のフェーズでは、当然ながら実践こそが大事なのである。つまり、手を動かし、やり、結果を出すことが。
善悪は実践の付帯物であり、付帯物にしては無闇矢鱈に尊重され、何ならしばしば実践より偉いかのごとく扱われている。
そして我々はもはやそんな順位付けはバカバカしくて採用できないんだよな。
やった人が言いなさい。そうでないなら、少なくとも、やってから言いなさい。
そうでないのに我々より高い土俵からどうのこうの、極めて盗人猛々しくいらっしゃいますね」

こうです。ヤバい。

もちろん、
「その実践は、善悪と整合的であったなら評価ポイントがつき、そうでないなら評価ポイントは下がる」
という話は出来ます。
出来ますが、彼らはふつうに
「65点から85点あたりの成果を100個出したやつと、90点の成果を5個出したやつと、100点の成果を出せると称して何の成果ももたらさなかったやつの、仕事で使い物になる度合いを並べてみましょう。
もちろん正解は、この順の通りになる、です。
あなたは2番目? 3番目? どっちかな?」
鼻で笑うように言うことでしょう。
試験本番の量が多い場合、「成果の数の多さ」に対する評価は、「成績の良さ」に対する評価を、実ははるかに上回ることがあります。学校で教えることのまずない、しかし社会では極めて重要な話です。

5.乱世の姦雄タイプの連中に、それでもあたかも治政の能臣に対するように遇すると、今がまだ治世であるならば、通る。これは「話が早い」ということでもある

善悪はたかが自由意志の杖に過ぎず、
「評価は後世が下す」
と言いながら自由意志で意思決定してやるやつ常に一蹴されるのです。
「この人とは約束をしたし信頼も結んではいるが、倫理道徳はたかが社会生活の杖に過ぎず、裏切られる可能性は常にあり、そんなことは大前提だ」
というサツバツ政局マインドの人に、転覆に対して極めて脆いし、それに備えることもしない、甘っちょろいマインドで運営されている倫理道徳を、何処まで貫徹するかという問題は、常にあります。

しかし、奇妙な解法が、実はあったりします。

一般に、サツバツとしたマインドで乱世の姦雄をやるのは、大変なことです。
甘っちょろいマインドでやれる治世の能臣の方が、はるかに楽です。

そして、治世の能臣は、「仕事の出来る」、しかも「まともな社会人」として扱われることで、概ね満足してしまう生き物です。
この「まともな」というのは、「倫理的な」ということとほぼ同じと考えてもそれほど外れてはいない。
だから、この2つを刺激すれば、そいつの行動をかなり安全なものに整えることが出来る。
具体的には、
「あなたはとんでもなくやっている方であり」
「しかも見ている限りでは何かしら世間的な価値観に丁寧に配慮していらっしゃるように見える」

これです。
妙な話ですが、治世の能臣の間では、
「単にものすごくやれている人」

「世間の縛りルールに、処世として敬意を払いつつ、その上でものすごくやれている人」
とでは、偉さが違います。
前者は、有能なのですが、まともな言動は出来ていない。
後者出来ている。これはもちろん、人間性という観点からすると、圧倒的な違いです。
「倫理しか出来ないこと」
を彼らは軽蔑しますが、
「倫理と仕事、人に必要なことのいくつかが、同時に出来ていること」
には、極めて高い価値を置きます。
幅広くやれていることは、一般にも高い価値でしょう。

要は、自由意志による実践に対して、善悪より高い価値を見出している人相手にやるべきことは
「行為を評価し、次にその属性として善悪を評価する」
です。
この順序は逆ではありません。
「善悪を評価し、その具体例として行為を評価する」
限り、その評価基準そのものが、「手を動かす人」からは、「手を動かさない人の戯言」として、無視され続けるでしょう。

だから、
「やることはやれており、しかも人の世の縛りをたくさん守れていること」
で、彼らを評価すべきです。
そうすれば、彼らは人の世の縛りを、かなり厳格に守ろうとすることでしょう。
それは、彼らが善悪をぶっちぎって害をもたらす可能性を、大幅に減じてくれる。彼らはあたかも人の世に適応的であるが如く振る舞ってくれる。
そんな風に働きかけていきましょう。

(以上です)

(かなり最悪なこと書いてんなお前)


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