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随筆(2022/1/6):「反抗期の子供を社会に送り出せるような養育者と同等の立ち振る舞い」という、色恋沙汰における呪われた賢者の石の話(1_21-22)(対等なパートナーシップを結んでも良いという深い信頼と、対等なパートナーシップ)

1_21.「対等なパートナーシップを結んでも良い」という査定&「深い」信頼関係

1_21_1.性行為は中間試験でもあり、これを通過して、対等なパートナーシップに辿り着く

1_21_1_1.一線を越えるための、綺麗な温もりの話、気に入った。一線を越えたリザルト画面は、「パートナーシップ判定:合格」です。おめでとうございます

性行為を受け容れられたら?
そして、その後、「やっぱり違う」と思われずに済んだら?
(今までの話がちゃんと積み上がっていたら、「やっぱり違う」と思われる脆弱性は、かなり丹念になくせているはずです)

「一線を越えるための、綺麗な温もりの話、気に入った。
一線を越えたリザルト画面は、「パートナーシップ判定:合格」です。
おめでとうございます」

ニュアンスとしては、だいたいこうなる。

素晴らしいではないでしょうか。
こうなるととても嬉しい。
おめでとうございます。

***

では、こうはならなかったら?

「やっぱり違う。
リザルト画面、「パートナーシップ判定:不合格」だな。
悪いけど、これで終わりです。さようなら」

こうです。

***

前者になりたいですよね。
後者、嫌ですよね。
心が通い合っていたはずの相手空想切除されるのもなら、「存在に値しない不合格人間だ」死刑宣告されるのも、メチャクチャ嫌ですよ。

***

評価とは
「現状での存在に値する。あなたは今のままでいて良い」

「現状での存在に値しない。今のお前は消えてなくなれ」
かという話を、常に含んでいるプロセスです。
後者であった場合、それは変化のためにかなり多大なコストを費やすことを余儀なくされる。ということであり、これは場合によっては命の危機です。

それがその人が全人格的にコミットしていた事柄への評価であった場合(色恋沙汰はしばしばそうでしょう)、それは
「本質的にあなたが関わって来たことは、私にとってはちゃんと正の効果として届いていた。あなたは素晴らしく、側にいて欲しい」

「本質的にお前が関わって来たことは、私にとっては最終的にはゴミだった。お前はカスだ。本質的に死すべき」
という意味になる。

だから、人への査定って、怖いんですよ。
私は常に匙加減を気を付けながら、それでもやる時はやる気でやってるけど。

んで、「不合格」と言った時に相手がブチギレるの、こうしてみると、逆恨みでも何でもないんですよね。
「本質的にお前が関わって来たことは、私にとっては最終的にはゴミだった。お前はカスだ。本質的に死すべき」
と言う話、やるなら是非やるべきだし、そういうつもりじゃないなら
「ここまでは良かったが、やはりここはダメです。そこは最早取り返しがつきません。残念だったね」
程度の説明は必要でしょう。
ここ、大事ですよ。これをしないと、留保をつけてない訳だから、
「全部ダメ。本質的に死すべし」
という意味に、結局なりますよ。
そりゃあブチギレられる。気を付けましょう。


「報復できないように先手打ってぶっ潰す」?
なるほど。
たいていぶっ潰せないので、更に激烈に報復されるので、俺はやらないけど。
「危険な人たちがうろうろしていないという身の安全が大事だ」
と考えている人たちが、
「目についた人に喧嘩を売ってキレさせて一触即発の危険な状態にする」
というの、身の安全という目的から見たら完全に最悪手、意味不明なので、俺は極力やりたくないんですよ。

1_21_1_2.これに合格したら、「対等なパートナーシップ」の「対等な相手」として認められ、「対等なパートナーシップ」に至るようになる

まあ、そんな訳で。
リザルト画面が脳にポップアップしている人には、そんな意識はないでしょうが、性行為結果的には色恋沙汰中間試験という意味合いを持ちます。

さっきも言いましたが、たいていこれは、相手なりにマジで色恋沙汰をやった上での、こちらからの査定です。
当然、全人格的にやっていることの評価全人格的な評価であり、全人格的にやっていることの否定全人格的な否定として受け止められます。そりゃあそうだろう。
あるいは、部分的に評価して、部分的に否定する。という、真剣かつ丁寧な評価をせざるを得ません。
結局、やってることは正に評価そのものなんだから、
「評価、まともに、下したくねえなあ」
というの、やってることと言ってることが違う。そういう不誠実、ダメ。
(もちろんそこまでちゃんと丁寧に伝えている人、あまり見ないけど、やった方がいいですよ。
何の留保もせずに、ダメと言うんなら、これは外形的には全人格的な否定と区別がつかないし、そりゃあ全人格的な反感を食らうの、かなり当たり前でしょう。
そんなつもりはない? じゃあせめてそこはキッチリ示さなければならない訳です)

合格と言いたいが、いろいろ言いたい脆弱性の話もある。
そういう場合も、やはり精妙な評価の話は避けられないでしょう。
こちらはさらにデリケートになります。合格と言いながら否定しているんだから。
「いろいろ言いたいことはあるが、とりあえず、合格だよ。良かったね。でも、今後のために、あれとこれだけは何とかして」
くらいのことしか言えないと思うんですよ。
何なら、ほとぼりが冷めてから、後で話した方がいいくらいだ。

要するに、
「本質的にあなたが関わって来たことは、私にとってはちゃんと正の効果として届いていた。あなたは素晴らしく、側にいて欲しい」
か、
「いろいろ言いたいことはあるが、とりあえず、合格だよ。良かったね。でも、今後のために、あれとこれだけは何とかして」
か、
「ここまでは良かったが、やはりここはダメです。そこは最早取り返しがつきません。残念だったね」
か、
「本質的にお前が関わって来たことは、私にとっては最終的にはゴミだった。お前はカスだ。本質的に死すべき」
かの、いずれかの結果になる訳です。

***

前者二つなら、まあ、合格というやつです。

これに合格したら、「対等なパートナーシップ」「対等な相手」として認められ、「対等なパートナーシップ」に至るようになる。

***

三つ目なら? お別れです。

言われた限りの反省点と、思いつく限りの反省点を洗った後で、引きずらずに、次に行きましょう。
反省点を教えてくれたことには、感謝はしなければならない。
次は、次の次は、もうちょっとマシになっているだろう。

***

最後なら? これもお別れです。

しかも、これは要するに、
「全人格的なカスよ。さようなら」
と言われたのと同じ意味になります。

うっわーむっかつくなーこれ。
こうならないようにしないとなー。


自分なりに功夫を練り上げたにもかかわらず、カス呼ばわりされて、どうダメかの説明もなかった?
それ、相手も大概酷くない?
相手が評価を下しておいて、「どう」評価したのか、ダマテンするの、こちらにとっては入試と入社の時と同じくらいデカイストレスです。
そして、100社落ちるのより100回失恋する方が、ふつうストレスは大きい。面接は一瞬だが、付き合いは一瞬じゃないことが多いからな)
そういうストレスブロイラーフォアグラ養殖行為をやるの、鬼だから、やめましょう。

そして、言われた限りの反省点は、何も言われなかった以上、洗い出せないので、思いつく限りの反省点を洗った後で、引きずらずに、次に行きましょう。
こうやって洗うの、大変ですよ。
正解がないんだから、次はもっと悪くなるかもしれない。
だとしたらマジで最悪だ。


非常におぞましい話をしますが、相手は全人格的なカス呼ばわりしながら、自分がそんなこと言ったつもりは毛頭ありません。
カスじゃん!
こんなやつの言った事を、ずーっと引きずるの、およそバカげているんだよなあ。
さっさと次へ行きましょう。

1_21_2.「対等なパートナーシップ」をやるためには、上記の話とは別に、「対等な人間関係」の素養が要る。つまりは、「まともな人間扱い」と言うやつが

1_21_2_1.人間関係に対して無責任な人が、人間関係でまともに扱われる訳がない

献身も、喜びも、両想いも、お願いも、感謝も、返礼も、約束も、お互いがお互いのためにし合うのも、公正取引も、防衛も、信頼も、心の柔らかい脆いところを開くのも、甘えも、温もりも、性行為も、査定も。
そして、後述しますが、対等なパートナーシップも。
これらは、全部人間関係のバリエーションでしょう。

目の前の問題、しかも双方のかかわり合いに起因する話に、片方が
「私はどうでもいいと思う」
とか言い出したら、そんな人間関係、まともにやってられない。
まして、そんなことを言う人の、人間関係における地位(それは信頼という形で現れて来る)は、当然ガリガリなくなっていきますよ。
それは、例えば、(以前も『公正取引』の記事で書いたけど)返礼しないことで保たれる地位のアドより、通常はるかに重いハンデだ。

「こいつはまともに人間関係をする相手ではない。
そもそも、こいつはまともな人間性の特質を持たないのだ。
こいつをまともな人間扱いすると、人間社会のうま味はドブの味になる。
だから、まともな人間扱いをせず、人間社会から叩き出そう」


こう思われたら、社交どころか、処世はおしまいだ。
だから、お互い、これだけは避けねばならない。
前にも書いたことですが、繰り返します。
特に、「対等なパートナーシップ」の話では、これをすっ飛ばしたら「対等」などあり得なくなるので…

1_21_3.基本的人権の原始的なあり方としての、最低限度の人間扱い

1_21_3_1.対等な人間関係をやるにせよ、やらないにせよ、絶つにせよ、最低限の人間扱いだけは、しなければならない

もっと究極的な話をすると、一つだけ、どうしても気を付けねばならないことがある。

「それでも、相手は、人間だ。
いろいろ考えたら、最低限の人間扱いは、やはりせねばならない」


ということだ。
ここは本当に大事だ。相手を道具扱いしていい権利は、永遠にやって来ない。人間扱いをしなければならないに決まってるではないか。

肯定的に思う必要はない。
いいとこ探しをする必要も全くない。
菜種みたいにぐちゃぐちゃに叩き潰したり、買い叩いて搾り尽くして捨てて死なせなきゃいいだけの話だ。

出来るでしょ。やれるかどうかは別として、やんなきゃならんのもかなり明らかだ。
で、じゃあ、そうした人権案件だけは、ちゃんとやっていきましょう。という話なんですよ。

1_21_3_2.相手を悪者にしてはならないし、自分が悪者になってもいけない。罪悪感で人間関係を構築するの、うまく行かない

恐怖・義務感・罪悪感(FOG)人を脅迫して支配する「エモーショナル・ブラックメール」概念を提唱した、スーザン・フォワード『ブラックメール』

ちなみに、ここで非常に大事な話があります。
それは、
「相手をある時点で悪いと咎めることはあり得るが、ある期間ずっと悪者にすることは、マズイ」
ということです。
これは初歩的なことだ。悪者扱いされる人間関係が心地よい訳がない。評価が、地位が、最低限の人間扱いが、ないんだから。

***

「私はこんな邪悪生物どもに何らの価値も認めないからな。
え?
価値を認められない人は、一般的には、菜種のようにぐちゃぐちゃに叩き潰されてお手軽に買い叩かれて搾り尽くされて捨てられて死ぬ?
だから?
それで?
何で、価値のない、結果的に、人としての地位を認めがたい「それら」に、そんな御大層な人権の話を当てはめようとしている?
どうでもいいオブジェがどうなろうと、どうでもよくない?」

***

ええと。
まあ、そういうことなんです。

人間と、人間扱いされていない相手との、人間関係。
そんなもん、まともに回る訳がないでしょう。

そんな腐敗した人間関係、解消するに越したことはない。
というか、これが最適解でしょう。

ということで、悪者扱いをやめることさえ出来ないのなら、そりゃあ人間関係など長続きする訳がない。

***

ここで勘違いされていることが多いが、ポイントは、「ある人が悪いかどうか」ではない。
「ある人が罪悪感を持っているかどうか」ですらない。

そうではなく、「ある人が悪者にされたかどうか」だ。

今の話は、人間関係を、善悪のレベルでエアプレイしているのではなく、数年間ずーっと地元なり学校なり職場なりで実際に(何なら被害者として!)巻き込まれて実践していたら、否応なしに分かることです。
(知らなかったとしても、それでもいいのです。今覚えて下さい。大事な話です)

***

対等な人間関係がどうしてもやりたいのなら、その前にまず、人間関係ということを、ちゃんとやらねばならない。

相手が一人前の人間であり、つまりは応答責任がある。
ということと、詰められてよい。ということは、基本的には別の話である。
訊いてはいいが、詰めてはならない。

***

ちなみに、ここで自分が悪者になってもいけない。
ここはよく誤解されるが、そんなものは「優しさ」ではない。ただの「逃げ」だ。「欺瞞」だ。
よく考えて欲しい。
「相手が悪者になると安心する」人、「相手をまともに扱わない」可能性がかなり高い。
そういう人と、将来的に対等な人間関係が結べる可能性、かなり低い。

そういうことをしたいのなら、その「相手をまともに扱わない」態度を、やめてもらわなきゃならん訳だ。
そこで、逆をやるの、何?

***

トラブルがあった時に、相手の言い分の正当性を認めたり、弱音を受け止めたりして、それらに配慮してなんかするなら、基本的には話はマシになるだろう。そういうものだ。
で、そんな時に、自分が絶対に正しい、つまりは相手が悪いと言いたげな、養育者みたいな顔をすると、相手に受け入れがたくなる。うまく回らなくなる。というの、かなりよく知られたことだ。

もちろん、逆に、自分が悪者になることで、それに寄与するという話は成り立たない。
それでもたらされる円滑さ、いずれ物事を悪くするぞ。
じゃあダメだ。こじれるだけだ。

少なくとも、あなたの「善くしよう」とする努力は、「悪者の言うこと」として、今後基本却下されるだろう。
それにあなたは耐えられるのか?
トラブルが悪い方向に傾いても、耐える。という人、マジか?
そんなの、もたんぞ。
そういう人は、耐えられる限り、いつまでも耐えようとするのだろう。

だが、
「何らかの理由で相手に何かしていい」
と思った人が、それをやめる訳がない。それは、ずっと、続く。
こっちは、いつか体力気力を使い果たして、直ちにボロ雑巾のように捨てられるだろう。

***

そういう人は、その後、本当に報復しないでいられるのか?
その人が義によってやった努力は、えげつない罰として返って来るんだぞ。
その人が義の人であろうとも、というか、義の人であればこそ、報復したくなるぞ。

倫理道徳と違い、ふつう、報いない。
倫理道徳のうち倫理とは善さのもので、とはたいてい公益のためのものだ。
倫理道徳と法が未分化である文化圏ならともかく、分化した文化圏の場合(日本は基本的にはこちら側だ)、公益でない私人間のものなら、報いは法的には正当化されない。

というか、日本を含む各国の近代刑法は、私人間の報復を認めていないはずだ。
そうなんですよ。実は、なんと、報復は刑法に反するんです。
(これをすると殺し合いが「永遠に」罷り通るので、およそ安全安心な社会生活は不可能になるからです。
一回で終わる? 何でそんなことになると思った?
報復先の身内は、身内を一人(以上)殺されているんだぞ?
「手打ちにする」プロセスなしに、終わる訳がないやろ。
そして調停のプロセスが、司法よりその辺の報復合戦当事者の民間人の方が上手い、などと言う話はおよそ成り立たない)

で、義の人が、倫理と相容れない法を破らず、報復もしない? そんな理由、あるか? かなりそこは疑わしいだろう。
つまりは、報復は、あり得る。そういう前提で臨まざるを得ない。

1_21_3_3.罪悪感ではなく、責任感が、「伝える」誠実さが、人間関係をもたらす

逆に、詰めなきゃ応えない人と、人間関係をやろうとするの、やめた方がいいですよ。無理ですよ。それは。

差し当たり、罪悪感なんかなくても、それでも、相手への何らかの反応は、それはしなければならない。という倫理観が、世の中にはある。
この「相手に反応しなければならない」という倫理観には、公正取引の章で述べた、「何かしてくれたから、恩返ししないといけないよな」というやつの他にも、まだ、ある。
何かというと、「ごまかしなく、正直に、答えなければならない」という応答責任の感性がありうる訳だ。
そして、その手の責任感があればあるほど、他人に対してごまかしなく誠実になれる。

***

この手の誠実さは、
「誰かを誤魔化したら(短期的には自分が相手から利益を吸い上げることが出来るかもしれないが)長期的には袋叩きに遭う」
という状況下で、初めて価値が出て来るものだ。
誤魔化しが横行して困るからこそ、誠実さは貴重な価値だ。

***

罪悪感が、義務感責任感を伴う誠実さを、直ちにもたらす訳でも、強化する訳でもない。
むしろ、罪悪感が顔をもたげたり、人に罪を弾劾されたときに、それを否定するために、無責任なごまかしをする人、たくさんいる。
そうなると、罪悪感が義務感に寄与するだけではなく、逆に、罪悪感の否定のため無責任になる、という二重否定的な工程を経て、阻害要因として働くことがある。
平たく言えば、罪悪感は義務感や責任感とは実は別のものだ。という話になってくる。

***

「伝える」タイプの誠実さを持たない人と、人間関係は、出来ないんだ。どんなに望んでも。
コミュニケーション上誠実でないということは、自分の安心や快不快や評判を少しでも守るために、他人を情報戦で操作することに何の躊躇もない。ということを意味する。
これは、それそのものは、何らまともな人間関係ではない。相手より上に立とう、操作しよう、という態度に他ならない。

1_21_3_4.機会均等に比べて、結果平等に依拠することの、どこがマズイか

たとえ、そういう、相手より上に立とう、操作しよう、という情報戦が、
「自分は相手より劣勢だから、下駄を履かせてもらえて然るべきだ」
という動機に基づいていたとしても、その情報戦の不当さは何ら軽減されない。

***

というか、情報戦をやる人、しばしば
自分は相手より劣勢に立たされている。現に不平等である。要求が満足に通らないことも多々ある。というか、ずっと諦めることを余儀なくさせられている。
だから、自分はそれを覆すために、権力勾配を逆にして、相手に要求を呑ませるための、情報戦を行うのだ。
これをすれば、権力勾配は覆り、あわよくば平らになり、結果平等がもたらされる。
資格? バカが。そんなものがなくても結果平等でなければならないんだよ。分かってねえな」

という結果平等の理屈でもって、こうした情報戦正当化していることが多い。

***

この手の闘争をもって結果平等をもたらすことは、出来るよ。
でも、当面、対等にはなれても、人間関係の方は非常に困難になる。
そりゃそうよ。人間関係の実践においては、悪いかどうかはどうでもいい。悪者にされるかどうかが問題なんだから。
そして、正にそこの虎の尾を踏んでいる訳だから。
これで、対等な人間関係など、無理よ。

***

よりマズイ話だが、問題の対応のために、闘争のアクションを起こした側
「殴られたから殴り返すのは当然である」
という話を、どう見ても対応が大筋で果たされ、つまりは大筋で対等になった「後」で、なおも振るうことは、ありうる。というか、よくある話だ。

「我々は飽きるまで永遠に報復する権利がある。
たとえ対等になったとしても、飽きたということと直結するとは限らないし、しばしばそうなっていない。
いつ何時でも殴っていい時点で、もう何ら対等じゃなくなっている? それがどうした。

我々は地位が欲しくて、報復がしたいんだよ。地位が与えられていて、報復が出来ることこそが、対等だということだ。
そうではない対等? 何のリアリティもない。バカか? 本当に分かってねえな」

気持ちは完全に理解出来る。かなりの部分、正当だとも思いますよ。
飽きたかどうかは自分の気持ちと納得の話で、相手がどうしたかじゃない。そこの自由は脅かされてはならない。

だが、自由な内心を越えて、相手がいる、人間関係の実践の話が絡んだら、自由な内心の都合は直ちに通らなくなる。これはもう、自由や正当性の話を越える。

正当性は、何かやる実践においての、ごく一部の理由でしかない。実践そのものは、正当性からはかけ離れていくことが多い。一致していることの方が珍しい。これはもうどうしようもない。特に、他人を巻き込む、人間関係においては。
あなたの正しさが、人間関係においても、常に通る訳ではないんだ。だって、あなたの正しさは、「あなたの中では正しい」ということに過ぎないんだから。そこから外に出たら通用しなくなることもある。そういうものです。

***

もちろん、誰もがアクセスできて拒まれない、はじまりの機会均等は、絶対に必要だ。
機会均等を実質的に有効ならしめるために、出来ない人を出来るようにするための教育制度も、これは用意しなければならない。
これをしないと、結果の不平等が、次の世代において、機会不均等として固定されるからだ。ある意味で、原始的な身分制を生じさせる。と言ってもいい。これらのレベルでの、平等主義の価値観の共有や制度設計は、もちろん必要だ。

だが、結果の不平等は、たとえ機会均等があったにせよ、「投資したらそれに見合う報酬がある」という投資の公正の結果、避けがたく生じる。
通俗的なイメージとは違うので、ぎょっとするところだが、実は公正と平等は違うものだし、別に公正が平等より進んだ制度設計である、という話は何ら成り立たない。
(この辺の話は、後の「パターナリズム」のところで、さらに詳しくやっていく予定です)

非常に嫌な話になるが、投資の公正を無視して、結果の平等を徹底させると、投資は行われなくなる。
集金して投資して効率のいい何かを作り、それを市場に売って普及させる、という話は成り立たなくなる。そんな種銭、集める前に、人数割りでバラバラの少額になってるんだから。
これがどう困るかというと、専門家集団による知的資産採掘はまず不可能になる。資源も道具も貧弱なものにとどまり、生活はとても危険で苦しいものになる。

***

そういう社会、実際にはありますし、ありました。

よく言われることだが、都市国家「以前」に、君主のいる、身分制のある、首長制社会というものは、広くあった。
もちろんこの頃は機会均等と結果平等は分かちがたく、結果不平等は機会不均等をもたらした。世代的な身分制を阻止する仕組みは、なかったか、何らかの政治力学で無力化されていた。

で、さらにそれ以前は、人間関係の出入りで離散集合したり、食料を求めて遊動したりするバンド社会や、広義の親族関係で仲間意識を持つ部族社会はたくさんあった。
いろいろなデータから、これらの社会は、平等主義の価値観が非常に強く、結果平等のために、大物を獲っても全部供出させられていたし、世代的な身分制は存在しなかったと言われる。

え?
素晴らしい世界ではないか、って?
資源や道具が貧弱でもいいのなら、それでもいいが…水道や電気やガスが使えなくても、処方や診察が不可能になってもいいなら、それでもいいが…
俺は良くないと思いますし、今の環境でないと死ぬ側の人なので、これ以上この件についてまともに考える気にはなれない。
理念のために、餓えて渇いて凍えて死んでほしい。という人の話を、自分がやっていくの、少なくとも私はスゲエ嫌なんですよ。分かって下さい。

***

安い労働力はさておいて(もちろん非常に重要なトピックだけど)、集金はしなければ、投資にならない。
集金をしている時点で、結果というか、正に今そこにある不平等だろう。

それでも、そういうことを経て、我々の今の生活があるのだ。

そういうのをすっ飛ばして、豊かで平等な社会を、結果だけ寄越せ?
結果だけ欲しがると、もちろんこういう話になる。

だが、分かるでしょう。これは、ものすごく、嫌われますよ。

「途中でやったことには全部何らの評価もしない。
むしろそういうのは汚らしい不平等の歴史だ。
それ以外の観点での評価など無意味だ」


と言っているんだ。
そりゃあ、関係者の、かなりの人が、怒るよ。当たり前だ。

「私はこんな邪悪生物どもに何らの価値も認めないからな。
え?
価値を認められない人は、一般的には、菜種のようにぐちゃぐちゃに叩き潰されてお手軽に買い叩かれて搾り尽くされて捨てられて死ぬ?
だから?
それで?
何で、価値のない、結果的に、人としての地位を認めがたい「それら」に、そんな御大層な人権の話を当てはめようとしている?
どうでもいいオブジェがどうなろうと、どうでもよくない?」

こういう態度を実際にはしていながら、「自分はそんなことしていない」と本気で考えている人、たくさんいる。
話を戻すが、罪悪感が顔をもたげたり、人に罪を弾劾されたときに、それを否定するために、無責任なごまかしをする。というやつの、顕著なパターンだ。
これを是認するのは、とてつもなく難しいと思いますよ。

***

結果の平等は、いくつかの意味で、弊害の大きい価値観だ。
逆の話として、集金による投資を是認する限り、集金者とそれ以外との結果の不平等を、排除することは出来なくなる。
結果の平等を是認も出来ないし、結果の不平等を否認も出来ないんですよ。
結果の平等に依拠している人、それは、今までの結果を見る限り、ハズレくじだ。やめといた方がいいですよ。

1_21_3_5.罪悪感に基づく人付き合いなんか、やめた方がよくないですか

罪悪感ではない応答責任や、それによる「伝える」誠実という回路を、今現在持っていない人に、対等な人間関係をやれる「能力はない」し、そもそもそんな「境地にたどり着けてすらいない」。個人的には、「資格がない」と考える。
あのね、だって、出来ないじゃん。分かってないじゃん。なのにやりたい? メリットだけは受けたい? 何それ。そんなことしたら、対等な人間関係は、単純に持続不可能になり、早晩消滅するぞ。無理なんだって。
どうしても対等な人間関係をやりたいなら、「しかしこの人を相手にそういうことは不可能だ」という話からは逃げられない。諦めてテキパキ別れなさい。

***

そこをすっ飛ばして、なおもそういう相手と対等な人間関係をやろうと言う人。
あなたのやりたいことは対等な人間関係ではなく、「ただの」人間関係ではないのか。
もっと言うと、罪悪感を使って、払うべき以上の財やサービスを搾取するための、権力勾配のある、そういう人間関係。
それ、そう思われたら、あなたへの信頼はゼロになるぞ。

悪者扱い等によって、人間扱いをされなくなった側は、

「あなたこそが邪悪生物である。
あなたに比べれば、私は邪悪生物でも何でもない。
少なくともあなたにだけは非難されたくない。
まして、あなたから罪悪感で無限に搾取されるの、金輪際お断りだ。
正義を背負って裁定と制裁を標榜する側が、盗人猛々しいことをするの、邪悪生物の類型でもかなり最悪の部類に属する。
そんなやつの言うことなんか絶対に聞けないね」

という話に頼りたがる。
だから、裁定や制裁をするなら、そこは本当に誤解のないようにしなければならない。

つまり?
誤解のないように、テキパキ別れなさい。

それでも、その人と、どうしても人間関係をやりたいんなら、それが対等な人間関係ではない、ということは弁えなければならない。
あなたは権力勾配の高い方だ。
やることなすこと、養育者みたいな鬱陶しいパターナリズムだ。
当然、相手からの反感の元だ。
それでもいいなら、やりなさい。


***

え?

「要するに、相手をクソガキと見なしている訳じゃないですか。
相手がクソガキに見えたら、そりゃあ幻滅はかなり避けられない。自分から、相手への、失望だ。
そんなことはしたくないんですよ」?

いや、気持ちはよく分かるが…それ、無理でしょ…
相手の言動から、相手に応答責任の意識がない、ということが分かってくるの、どうあっても途方もない失望をもたらす。
これは、自分にまともに人を見る目があればあるほど、避けがたく、こうなる。

で?
自分の目を裏切ってまで、綺麗事や夢を捨てたくない?
そういうのやめた方がいいですよ。
それをやって生きていけるほど、外界は甘くないことは、あなたも百も承知でしょう。

1_22.対等なパートナーシップ

さて。
「対等な人間関係」。
これが、「パートナーシップ」という語で通常想定される在り方です。
個人主義であるリベラルの、それでも社交や処世をやっていかざるを得ない場合の、理想形の一つと言っていいかと思います。
よくここまでたどり着くことが出来た。それは本当に、掛け値なしに素晴らしい話です。

***

これまでの道を、大雑把に書くと、こうなります。

そもそも安全安心でありたい
→仲間内での自分の立ち位置の確保
→承認されるだけの外形的即物的な才能を研ぐ
→承認されるだけの風格
→キラキラしたもの・隠された輝き
→色恋ロマンティック特大感情
→相手の好き嫌いを見る(and想像力・メンタライゼーション)
→相手が喜ぶ楽しいことをする(献身)
→相手が喜ぶ楽しいように振る舞う(パフォーマンス)
→言動一致の誠実さ
→心からのサービス精神
→相手の喜び
→相手からの好印象
→相手からの受容
→相手からちゃんと見てもらえる
→相手からより深く理解してもらえる
→相手からより深く自分の魅力を評価してもらえる
→相手からはっきりと好意を持たれる
→告白してちゃんと想いを伝え合う
→実際の両想いの恋愛関係
→お願いをする
→そのためにニーズや地雷のルールブックを編纂して開示して随時改訂する
→応答責任を持つ
→お願いを聞く
→感謝する
→恩義を感じる
→謝辞を表す
→返礼をする
→相手からの返礼を心意気込みで受け取る
→約束をする
→約束を守る
→約束を守ってくれたことを大いに評価する
→約束に失敗したらちゃんと不達成と迷惑について謝る
→失敗と謝罪をちゃんと許す
→お互いがお互いのためにする
→相手の喜びや相手のしてくれたことに見合うように公正取引をする
→略奪防止をもって心身と私的領域と所有と公正取引の安全を確保する
→安心して付き合える信頼関係を構築する
→心の柔らかいところを相手に開く
→甘える
→キャッキャウフフと戯れたい気持ち
→温かく瑞々しく柔らかく癒され潤う気持ち
→身体的接触(自分を見て欲しい、相手の手の温もりが欲しい、抱きしめて欲しい、キスして欲しいetc.)の合意
→(自分を見て欲しい、相手の手の温もりが欲しい、抱きしめて欲しい、キスして欲しいetc.を含む)性行為
→「対等なパートナーシップを結んでも良い」という査定
→「対等なパートナーシップを結んでも良い」という「深い」信頼関係
→対等なパートナーシップ

***

う、うおー…こんだけやりゃあ、かなり上手く行くのだろうが、し…しんどい!

***

だが、「やる」しかないだろう。

(続く)

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