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『ONI ~ 神々山のおなり』が描く現代日本の差別と分断:馬場あき子『鬼の研究』に寄せて

はじめに

もはや、兇悪者への変身によって志をとげる時代ははるかに過ぎたとはいえ、兇悪者そのものとして生を遂げることも不可能な脆弱な部分を、地獄の現実の中にさえ持っているのが人間である。

(馬場あき子『鬼の研究』三一書房、1971年、251頁)

 2022年10月21日に配信が開始されたNetflixシリーズ『ONI ~ 神々山のおなり』(英題は“ONI: Thunder God’s Tale”)は、神々山に住まう「神」と神々山を脅かす「ONI」との衝突を物語の主軸として、鬼にまつわるクリシェに現代的な再解釈を加えた全4話(計154分)の3DCGアニメーション作品である。本作は、神々山で暮らすおてんばな少女・おなりの成長を描きながら、人間の心に潜む恐怖が差別を生み出すことを洞察した労作と言える。

 本作の舞台となる神々山は、「ONI」と呼ばれる外敵の襲来を前にして、危急存亡の秋を迎えようとしていた。「鬼月おにつき」(Demon Moon)と呼ばれる真っ赤な月が昇る夜、「ONI」の力は最大限に増幅される――そんな言い伝えを受けて、「神」の子供たちは天狗先生の指導のもと、「ONI」に対抗できる「クシの力」という特殊能力を目覚めさせるべく、日々鍛錬に励んでいた。おとぎ話の「グレートヒーロー」に憧れる本作の主人公・おなりも例に洩れず、「ONI」と戦うための教練に参加することになる。おなりは村を守るヒーローになろうと意気込んで教練に臨むが、なかなかクシの力を発現させることができない。学校の同級生たちが次々とクシの力を開花させるなか、おなりは自分の発達が遅れていることに焦燥感と劣等感を抱く。本作において、クシの力は親から受け継ぐものとされている(たとえば、天狗先生の娘・あまてんは飛翔能力を父親から引き継いだ)。そこで、父子家庭に育ったおなりは自由奔放な父親・なりどんを観察して、自分のクシの力が何なのかを探ろうとする。おなりはその探究過程で、なし崩しになりどんの秘密と「ONI」の正体を知ることになる。
 本稿では、「ONI」はどこから来るのか、「ONI」は何者か、「ONI」はどこへ行くのかという3つの観点から本作に分析を加える。分析に際しては、歌人の馬場あき子の著作『鬼の研究』(三一書房、1971年)を入口とする。馬場は鬼の系譜を(1)神道系(祖霊、地霊など)、(2)修験道系(天狗など)、(3)仏教系(夜叉、羅刹など)、(4)人鬼系(放逐者、賤民、盗賊といった人間社会からの落伍者)、(5)変身譚系(怨恨や憤怒といった情念を原動力として男への復讐を望む鬼女など)の5つに分類している(同書9頁)。後述するように、本作における「ONI」は、馬場の分類に従えば(4)人鬼系と(5)変身譚系の複合形と整理することができる。ただし、馬場が「近世にいたって鬼は滅びた。苛酷な封建幕藩体制は、鬼の出現をさえ許さなかったのである」(同書10頁)と述べていることには注意を要する。本稿では、馬場の分類を補助線として用いつつも、「ONI」の性格を馬場の設定した枠組みに押し込めることのないよう留意する。何となれば、「ONI」は幕藩体制以前の「鬼」と同音の言葉であり、その元来の性格をある程度引き継いではいるものの、あくまで現代日本の差別と鉤括弧つきの「多様性」を象徴する概念として機能しているからである。以下、本稿では、「ONI」の有する現代的性格に注目して分析を進める。

「ONI」はどこから来るのか

 本作において、「ONI」は「戻り橋」の向こう側からやってくるとされている。戻り橋は神々山と「ONI」の村の境界に架かった通路であり、「神」の子供たちは戻り橋を渡ることを大人たちから禁じられている。かつて、ある嵐の夜、なりどんは赤ん坊だったおなりを連れて、戻り橋の向こう側から現れた(第1話冒頭のシーン)。なりどんは赤い肌に黄色の角を生やし、虎柄のパンツを身に着けるなど戯画化された「赤鬼」の姿をしている。また、なりどんは自分の過去について積極的には語ろうとしない謎多き存在でもある。本作はこうしたミスリーディングな描写の積み重ねによって、視聴者(特に日本の文化に馴染みのある人)に「じつはなりどんこそが『ONI』なのではないか」という誤った予断を抱かせることに成功している。ここでは、「ネタバレ」を極度に嫌い、びっくり箱的な構成を好む視聴者に餌をやるエンタメ的配慮も見受けられる。
 とまれ、戻り橋という名前は、洛中と洛外を分ける橋として架けられた一条戻橋を思い起こさせる。一条戻橋は渡辺綱が鬼の片腕を切り落とした伝説の舞台として有名であり、鬼と橋の結びつきは古来深いと言える。馬場も『鬼の研究』のなかで、鬼の「もっとも華麗な示威の場」として山・橋・門を挙げており(『鬼の研究』、111頁)、とりわけ橋について次のように述べている。

橋や都門はいずれも多くの人びとの交通の頻繁な地点であり、ここに登場することによって、成功すれば鬼の示威は一度で広く伝播が可能である。そのうえここを通行する人口によって、従来語り伝えられていた諸説話との混交・乱交が生まれ、ながい〈時間〉というるつぼのなかで溶けあい淘汰され、ひとつの典型が生まれて行く可能性がいちばん強い。

(同書111頁)

 馬場は橋が交通の要衝であることに注目し、橋を鬼が自分の存在を効果的にアピールできる場とみなした。それでは、なぜ鬼は自分の存在をアピールする必要があったのだろうか。馬場は一条戻橋や羅生門の事例において、鬼は「なお昔ながらに他界のものとして扱われ、居所・生活をもたぬ空無の暗黒を背負っている」と述べている(同書116頁)。この整理に従えば、橋は彼岸と此岸の境界に架かる通路であって、橋に出没する鬼は彼岸の存在であると言うことができる。ただし、馬場が「なお昔ながらに」という副詞句を付していることに鑑みると、鬼が「彼岸の存在」といっても、そこには単純な「他界のもの」とは異質な新しい相、すなわち此岸(人間社会)から排斥された者が含まれ始めていたことが窺われる。境界を引くという営みはすぐれて能動的なものであって、そこには「臭いものに蓋をする」ような効果も伴う。不都合なものや正視したくないものを境界の向こう側に放逐すれば、一時的ではあれ、境界のこちら側には精神的な安寧が訪れる。しかし、境界の向こう側に放逐された落伍者が一味同心して結集すれば、叛乱や抵抗の火種となって境界を侵犯し、境界の正当性を問い直す契機を生み出す。この段になって、鬼は前述した(4)人鬼系の相貌を持つようになる。馬場は端的に、「反体制、反秩序が、基本的な鬼の特質である」と述べている(同書249頁)。少し引用が長くなるが、馬場は別の箇所でも「反体制、反秩序」について丁寧な言い換えを行っている。

王朝という、摂関貴族政治の背景には、その繁栄の数十倍の部厚さをもって犠とされた人と生活があったことはいうまでもない。〈鬼とは何か〉について考えるとき、第一に頭に浮かぶことは、むしろこうした暗黒部に生き耐えた人びとの意志や姿なのであって、羅生門に出現した鬼なども、心のどこかでは実は人間的な顔とかさなるところがないではない。というのも、王朝の繁栄の進展とともに、鬼はしだいに他界のものの相貌を失ない、行政圏外の暗黒部に破滅していった人びとの、しぶとく、あくどい生き方に近づいてゆくからである。そして、爛熟し頽廃にむかいつつある時代の底辺に、鬼はきわめて具体的な人間臭を発しつつ跳梁していたという印象をうけるのである。

(同書119-120頁)

 また、境界の向こう側に放逐された者が怨恨や憤怒といった情念に駆られ、臥薪嘗胆の思いで復讐を志せば、鬼は前述した(5)変身譚系にも近づくと言える。それゆえ、論理的な帰結としても、「戻り橋」と結びついて観念される本作の「ONI」は(4)人鬼系と(5)変身譚系の複合形だと言いうるが、それにとどまらず、本作は怨恨や憤怒と並んで恐怖という情念に焦点を合わせることによって、当該複合を現代的に再配置することを成し遂げている。ここで重要なのは、境界の向こう側(彼岸)への放逐の結果、かえって彼岸の情勢が不透明となり、彼岸の密かな軍事化に対する恐怖が掻き立てられ、彼岸に対する先制攻撃の欲望が頭をもたげ、結果的には境界を挟んで相互に軍事的牽制の応酬が続いてしまうという一連の流れであるが、この点については次節で詳しく論じる。

「ONI」は何者か

 本節では、「ONI」の有する現代的性格について掘り下げる。まず、前節で述べたなりどんの「ONI」疑惑は、第1話の終盤において、なりどんが最強の雷神であるという事実が明かされることによって払拭される。続けて、第2話では、なりどんの弟で風神ぷうろうが神々山に来訪したことをきっかけに、「ONI」の実像が少しずつ明かされていく。風太郎は十年前の嵐の夜に突如失踪した兄を探して流浪の旅を続け、ようやく兄の手がかりを得て神々山に辿り着いた。風太郎はなりどんと「雷神風神コンビ」(the Mighty Storm Gods)を再結成して「ONI」の脅威に立ち向かうことを望むが、なりどんは雷鼓を打ち鳴らして雷を起こすことに乗り気ではない。すっかり腑抜けになってしまったように見える兄の姿に、風太郎は苛立ちを隠せない。さらに、風太郎はおなりが母親の形見として持っている人形が「ONI」の村のものであることを見咎め、なりどんを問い詰めるが、彼は何も答えない。二人の会話を聞いてしまったおなりは、雷神の娘でありながらクシの力を目覚めさせられない自分が嫌になっていたことも相俟って、自分のルーツを求め、戻り橋を渡ってしまう。戻り橋を渡った先でおなりが目にしたのは、煌々と輝く高層ビルとネオンの光であった。風太郎の言う「ONI」の村とは、人間の集落のことだったのである。
 「ONI」がまたの名を「人間」ということは、続く第3話でも明言される。「ONI」の脅威とは、神々山を切り拓いてショッピングモールを建設するという人間の環境破壊を指していたのである。第3話では、「ONI」の村、すなわち現代日本の郊外の街に迷い込んだおなり(および彼女を追ってきた親友のかっぱ)の当惑がコミカルに描かれるとともに、人間の男の子・カルビンとおなりの邂逅が主題となっている。カルビンは黒人のアメリカ人の父親と日本人の母親を持つハーフの男の子だ。カルビンは日本の妖怪に強く惹かれており、本物のかっぱを前に興奮を抑えきれない。しかし、カルビンは同級生から「アメリカ人」なのにやけに妖怪に詳しいと揶揄されており、その痛みに必死に耐えている。カルビンは等質的で迎合をよしとする日本社会のなかで、「ガイジン」呼ばわりされ、奇異の目を向けられるマイノリティの一人として描かれている。
 第4話において、カルビンは昔の人間が自分たちと見た目が違う人間のことを「鬼」と呼んで恐れていたという説に言及する。カルビンは日本に引っ越してきた当初、自分をまるでモンスターのようにまなざす日本社会が嫌いだったが、妖怪の伝承を知ったことで日本文化が好きになった、とおなりに語る。この発言は多分にリップサービスを含んでいるだろうが、カルビンが人間社会、いや日本社会からの落伍者に深い共感を覚えたことは想像にかたくない。後述するように、(4)人鬼系や(5)変身譚系の「鬼」を生み出した「人間」が「ONI」と呼び返される構図には、「どっちもどっち」論に接近する現代的な俗流相対主義が見え隠れする。
 カルビンの物語と並行して、おなりのルーツも明らかとなる。第3話では、おなりの両親は「雷神風神コンビ」の起こした嵐に起因する交通事故で亡くなったことが明かされる。自責の念に駆られたなりどんは、怒れる雷神としての生き方を捨て、神々山に居所を定め、人間のおなりを娘として育て上げた。しかし、おなりが人間、すなわち「ONI」の子であった(だからクシの力も発現しなかった)ことが明るみに出たことで、なりどんは化け物を育てたと糾弾され、おなりも槍もて神々山を追われてしまう。それにとどまらず、神々山は鬼月の夜を前にして、「ONI」に対する先制攻撃へと傾いていく(第4話)。本作はこのように人間こそが残忍非道な「ONI」であったという種明かしを行いつつも、「世のなかに鬼のうからは多けれど 人にましてぞ鬼なるはなき」というクリシェに陥る直前で折れ曲がる(*)。本作のキーワードは「怖れの影」(shadow of fear)である。

(*)ソポクレース『アンティゴネー』、第1スタシモン(Soph. Ant. 332-3)。日本語訳は文学研究者の長谷川晴生氏の提案に従った。

 第4話において、おなりの追放と「ONI」に対する先制攻撃を主唱したのはなりどんの弟・風太郎であった。風太郎は「ONI」に故郷を滅ぼされ、両親を殺された悲しみと怨みを抱えていた。風太郎の激しい敵愾心の根底には、「ONI」という得体の知れない他者に対する恐怖、すなわち「怖れの影」があり、それが風太郎の正気を失わせる結果を招く。なりどんもまた「怖れの影」と無縁ではない。なりどんはおなりを失うかもしれない、「神」と「ONI」が全面的な武力衝突に発展するかもしれないという不透明な情勢を不安に思うあまり、「怖れの影」に呑まれ、黒雲をまとった巨大な怪物と化してしまう。なりどんは戻り橋で風太郎を旗頭とする神々山の軍勢を待ち構え、ここに大怪獣バトル然とした神々の内乱が勃発する。不定形の巨大な怪物と化した二人の兄弟が衝突する様子は、境界を挟んで不透明な情勢が続くかぎり、恐怖は無限に膨れ上がって自家中毒を起こすということを暗示している。疑心暗鬼という言葉に「鬼」の字が含まれていることを改めて噛み締めなければならない。
 本作は、人間や「神」の心に等しく巣食う恐怖という情念に焦点を合わせることによって、偉大な「神」ですら「怖れの影」に呑まれれば「ONI」に変身してしまうという反転を描いている。加えて、おなりやカルビンと連帯した神々山一同の歌舞によってなりどんが正気を取り戻す展開を通じて、「怖れの影」に打ち勝つため、自分と異なるものを知って受け入れる心(真のクシの力)を会得することが肝要なのだというメッセージを伝えている。本作において、人間と「神」は究極的には等価に扱われている。このように、差別(ひいては武力衝突)を心の問題に縮減させたのは、本作の比類なき達成であると同時に明確な限界でもある。本作の限界については、次節で詳しく論じる。

「ONI」はどこへ行くのか

 馬場は『鬼の研究』のなかで、折口信夫しのぶ信太しのだづまの話」(1924年)に登場するおに・かみ同義説に言及して、次のように述べている。

私はもういちど、〈おに〉と〈かみ〉が同義語であったかもしれぬという説に立ち止まらざるを得ない。それは、いいかえれば人間の心に動く哀切な両面である。

(『鬼の研究』、9-10頁)

 「神」と「ONI」を等価とみなす本作の筋書きは、折口や馬場に代表される所説を踏襲しただけにも見える。しかし、本作は差別の問題を「ONI」という概念を用いて取り扱ったことによって、平板な鉤括弧つきの「多様性」論議に棹さすことにもなっている。第4話において、かっぱは塞ぎ込むおなりに対して、「神」も人間も「ONI」も関係ないと言い放った。この言葉のとおり、なりどんを「怖れの影」から解放したのは、たしかに「神」と人間の――特に子供たち同士の――連帯であった。しかし、本作の結末において、「神」と「ONI」との境界がなお維持されていることはどうしても看過できない。神々山の開発計画は「神々山にあやかしが出る」という噂によって中止となったが、これは場当たりの解決であって、ハッピーエンドには程遠い。「触らぬ神に祟りなし」という思考は、恐怖が境界を挟んで相互にエスカレーションを起こすメカニズムに何ら変容を迫るものではない(つまり、根本的な問題はまったく解決されていない)。さらに言えば、境界を引いて相互不干渉を貫くことは、「多様性」を尊重するどころか、現代的な俗流相対主義を後押しする結果を招きかねない。「どっちもどっち」論に接近する現代的な俗流相対主義は普遍的な正義の理念を見失わせ、境界の向こう側にいるマイノリティをさらなる忍従へと追い込む。差別を個人的な心の問題にとどまると考えるかぎり、厳然と実在する差別はそのままに投げ出されて、温存される。おなりとカルビンのあいだには友情が結ばれ、二人は文通をする間柄になったけれども、決して楽観はできない。人間社会におなりの居場所がなく(死亡扱いになっていてもおかしくない)、おなりが神々山で「神」の一員として暮らす以上は、神々山は風前の灯火であり続ける。
 本作は、終始一貫して、差別を社会全体で解消すべき問題とは捉えていない(あるいは、差別をなくすことはできないという諦念をにじませている)。第4話において、カルビンはおなりの神々山からの追放に憤り、それは差別だ、ここがアメリカなら街中でデモが起きると息巻くが、この台詞には日本では反差別デモなど起こらないだろうという含意がある。カルビンはそのようなプロテストの不全のなかで、たくましく生きていくことを余儀なくされている。すでに馬場が述べていたように、幕藩体制の成立以降、鬼はプロテストの起点として存続しえなくなった。妖怪に惹かれるカルビンでさえ、実感としては、鬼を節分豆によって追い払われる程度の頼りない存在としか認識できなくなっている(第3話)。馬場も次のように述べて、鬼の衰滅に哀悼の意を表している。

 反体制、反秩序が、基本的な鬼の特質であるとすれば、近世の封建的社会体制の確立しゆくなかで、当然、鬼は滅びざるを得ないものであり、そして滅びたといえよう。
 節分の夜、まれ人たる鬼が追われることに代表的理解が見られるように、近世以降の鬼は、豆つぶてにさえ簡単に追い払われる姿が演出され、それによって慴伏衰滅の結末を見せてはいるが、しかし、なお、鬼的な力の衰滅を本当には信じたくない気持が、人々の間には根強く残っていたのであり、近世社会が多くの義賊を生み、あるいは、弱きを扶け強気をくじく股旅仁義に、庶民的感情を昂らせたのも故ないことではない。

(同書249頁)

 そろそろ本稿の結論を出すことにする。鬼が衰滅した後に再構成された現代の「ONI」は、馬場の分類における(4)人鬼系と(5)変身譚系の性格を引き継ぎつつも、もはやプロテストの起点としては機能しなくなっている。加えて、「ONI」は恐怖という情念によって生み出されるが、恐怖はマジョリティ/マイノリティに共通して伏在しているため、相手を「ONI」と呼ぶ側も「ONI」に変貌してしまう可能性がある。こうして、「ONI」という概念は永遠の相対化のなかに埋もれてしまい、厳然と実在する差別は放置されてしまう。本作はこの相対化の連鎖を断ち切るため、相互理解(真のクシの力)による恐怖の克服を謳い上げる。しかし、本作は恐怖を克服する手続に関する示唆を欠いているため、メッセージ自体は高く評価できるとしても、精神論にとどまっていると言わざるをえない。本作は言うなれば、現代日本の差別と分断に関するインテリム・リポートである。それでは、告発された問題に対して、一体誰が処方箋を書くのだろうか。少なくとも「社会が変わってしまう」という言葉遣いをする首班でないことだけは確実である。

おわりに

 最後に、本作の日本語版キャストについて、一点だけ附言しておきたい。カルビン役を演じるマリナ・アイコルツ(Marina Aicholz)は、アメリカ人の父親と日本人の母親を持つハーフタレントである。カルビンのときおり英語が混じる「カタコト」の日本語に説得力を与えるため、ハーフタレントを起用するという選択が完全に間違っているとは言えない。ただ、黒人ハーフのキャラクターにわざわざマリナ・アイコルツを起用するのが、日本的な(正確に言えば非アメリカ的な)判断であるということは念頭に置いておくべきである。
 これに対して、本作の英語版でカルビン役を演じているのは黒人俳優のセス・カー(Seth Carr)であり、本作の制作陣が「声優とキャラクターの人種を一致させるべきだ」というアメリカの労働運動に敏感に反応していることが窺われる(本作の制作を務めたアニメーションスタジオ・トンコハウスはカリフォルニア州に本拠地を構えている)。これは「ポリコレ」の成果などと短絡的に理解すべきではなく、白人声優/黒人声優間の役柄をめぐる雇用の不均衡を是正しようとする業界内の努力の賜物と受け取るべきだ。もちろん、日本の芸能界においては、現時点でアメリカと同程度の不均衡が生じているとは言いがたく、アメリカの議論をそのまま日本に適用することには慎重にならなければならない。ただ、将来的に同様の不均衡が生じた際には、躊躇なくその不均衡を是正する必要はある。そして、日本においても、アイヌ、沖縄出身者、在日コリアンといった局面では、すでに役柄をめぐる雇用の不均衡が生じていることを忘れてはならない。

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参考文献

馬場あき子『鬼の研究』三一書房、1971年(ちくま文庫、1988年)。

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