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日本の伝統芸能の「能」を学び、死生観を探求して、たどり着いた言葉

老いや死に対する敬意を、頭では理解しているつもりだけど、心からは、そう思えていない自分を責める気持ちがありました。

「日本にかつてあった死生観や美意識に、能を通じて触れることで、何かヒントが得られるのではないか?」

それが、この半年間、「ゆっくり、いそげ」の影山さんが開いてくださった、伝統芸能カレッジ「能の扉」を受けたきっかけです。 以下、いくつかの日記を振り返ります。

若さや華やかさなどが美しさだ、という表現の中で育ち、それが美しさだと思っていたが、 能の世界では、老いや地味さなどの、反対側も含めた全体性に美しさを見出している。

まだ、そう見えていないが、そう見えたら、もっと"美しさ"という概念を好きになれそうだし、奥底ではしっくりきている感覚もある。

能の世界では、曇りの日をエネルギーが充満している状態と捉えるそうで、モヤモヤしている状態も、それに近いなあ、と思います。

「和服は、日本人の体型を肯定している。」 たしかに!って思うし、素敵な表現だなあ。

" 先を行く他者から何かを手渡され、その何かを継承する他者を見出した時、自己と他者を隔てる壁は溶け、世界と時間は動的なものとなり、私たちは自分の原点となったみずみずしい生命を回復できる。"

福岡伸一の読まずにはいられないより

気が付いたら、行動で日常が埋め尽くされている。 価値を出さないと、居てはいけない。 行動の奥に、そんな過去のトラウマからの恐れや不安がみえた時には、「何もしない」ことを選択することにした。 世界を変えたいなら、まず自分が変わればいい。 日常の中に、余白がある世界に居たい。

恐れや不安から、余白を行動で埋めようとしたときに、あえて「何もしない」ことを意識すると、 「価値をださないと居てはいけない」 という恐れや不安から回避、抵抗する以外の行動が滲み出てくる。僕の場合は、相手を気遣う行動が滲み出てきた。

経済活動(行動)を最小限で成り立たせるという挑戦は、脱成長ともとれるが、世阿弥が風姿花伝に書いている真の花へ向かう成長とも捉えられる。 活動の判断基準に、利害や損得よりも美しさを重んじて、その審美眼を磨いていくという生き方は、しっくりくる。

センスとか、お洒落とか、そういう観点での美意識も大切だと思うし、憧れもあるけど、 能を学んで、それまで、どこかで味気なさを感じて、枯渇していた自分が潤っていくように感じる美意識は質感が異なる。

自然や生命の理や歴史や伝統などと、自分の命の繋がりを感じさせてくれる感覚。

さて、最近、以下の文章に釘付けになりました。能の学びがなければ、見過ごしていた文章だったと思います。

" 認知症研究の第一人者・長谷川和夫さん(2021年11月ご逝去)。

自ら認知症であることを公表し、当事者としてさまざまなことを発信していました。このインタビューは亡くなる3か月前に伺った、ご本人と家族の大切なメッセージです。

「私は認知症になる前は自分が専門家でありながら、認知症になったら向こう側の人、認知症でないこちら側の人、と隔絶していると思っていたんですが、そうじゃなかった。

つながっているんです。

私の症状には波があって、朝起きると脳が光り輝いていて、お昼、夕方とだんだん弱ってくる。翌朝になるとまた輝いている。他の人にはない尊いことです」。"

この、長谷川さんの言葉を読んだ時に、死や老いに対する敬意が湧き上がりました。
そして、この言葉に導いてくれた能の学びに感謝の気持ちがあります。

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