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【お前の目の奥にだけ用がある】

母はよく言った。
『ねぇ、アンタからお父さんに言ってよ。』

兄が一人暮らしをすることから、父方の祖母に癌が見つかったことまで、全て私の口から父に伝えて来た。

父は恐い人だった。
血の気が多く、口が悪かった。

それでも私は父を恐れたことが無かった。
お父さんっ子の私は可愛がられ、叱られたことがなかったからだ。
父に怯え、遠巻きにする家族がとても不自然に見えた。
こんなに冗談に笑い、こんなに優しい父なのに。

そんな私が今、父と囲む食卓は、重たい空気のせいで時が止まっている。

アメリカ留学・ノンフィクション──16歳で交換留学にチャレンジする話

         ∇∇∇

『話があるんだけど、』
そう言いながら晩酌中の父の前に座る私を、彼はジロリと見上げた。

その目は、既に全てを見透かしたような目だった。

私が何か大きな決断をしようとしていること、初めて自分に向かってこようとしていること、そしてそれは、何か許し難いことだろうということ。

勘の良い人だ、私の声のトーンでもう大方分かっていたと思う。

『アメリカに行きたいの、交換留学に応募したくて…』

私は、メモ帳をギュッと握りしめていた。
交換留学への応募を許してもらうために、説得するために、こう言われたらこう返そうと考え抜いたメモ。
あらゆるケースを想定し、自信を持ってプレゼンし、討論し、論破しようと何日もかけて準備していた。

しかし、あの目で真っ直ぐ見られた瞬間。

重い岩が目の前にずっしりと据わるような圧迫感に、私は怖気づいた。
この岩は、私にはひっくり返せそうにない。

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父を尊敬していた。

15で大工の棟梁に弟子入りし、20で子供が出来ると、彼は一人で山へ行って木を切った。
家を建てると意気込む青年には、7万円しか無かった。それを見て大人は笑った。
誰も相手にしてくれなかったので、彼は一人で家を建てた。
十字路の角の平屋の家。

『初めての日は、新聞紙をキッチンに敷いてチャーハンを食べたもんだよ』と母は言った。
『立派な家だね、どんな人が越してくるんだろうねって、皆で話したもんだよ』と近所のおばちゃんは言った。

ハタチの父が建てた家で育ち、私は父を尊敬していた。
自ら棟梁となり、建築会社をもった父を尊敬していた。

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『本当に行くのか。』

父は、その一言だけ、私の前に置いた。
私はそれを受け取って私の一言を置いた。

『はい。』


父の目は私を試すように据わっていた。
私は負けないように目を見開いた。
絶対、逸らさない。

無音のまま、瞬きもせず、どのくらい経っただろう。

『分かった。』

父は、そう言ってふっと強い視線を解いた。

あれだけ書き殴ったメモは一度も開かれなかった。

父は、私の目の奥だけを確かめたかったようだった。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!