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馬鹿の名前

引っ越しハイかもしれない。
つい先日まで「引っ越しうつだ」と寝こんでいたのが嘘のように朝から晩まで片づけをしている。
この極端な性格、どうにかならないものだろうか。
しかも先週はかなりの時間を睡眠にも費やせていたのに、今はやや不眠気味である。
おかげで部屋もだいぶ片づいてきたし、外界とも接触をとって今ある問題の解決にも向かえているのだけれど、これが一段落したらまた糸が切れそうで怖い。

なにごともバランス。

わかっていても身につかないまま、はや四十四年。
いったい後半生はどうなってしまうんだろうと想像してみても、たぶん一生、こんな調子でいくのだろうとしか浮かばない。



昨夜、あるひとに電話をかけた。
引っ越しまえにも何度か連絡をとろうとしたが、どうにもつながらずに転居することになってしまった。

このひとは生前、母の友人だった方である。
といっても母より十ほど年下で、はじめて会ったときはまだお子さんも小さかった。
創価学会員だったため、近所に引っ越してきて早々に母が声をかけにいったのだけれど、これが予想外なふうに親しくなった。

「創価学会は馬鹿しかいない」

そう言ってはばからない彼女は、誰に誘われたのでもなく、自分から学会に入ったのだという。
なんとなく、全体の九割が勧誘か家族がらみで入会するものというイメージが私にはあるから知ったときはそんな人もいるのかと驚いたものだった。
事実、その時点から彼女は異色だった。
入会まえに独学で学会の勉強もしておいて決めたひとというのを、私は彼女のほかに見たことも聞いたこともない。

そんな彼女のことを、けれど、なぜか母はいたくお気に召したようだ。
よく家にお茶をしに来ることもあって、私もお会いする機会が増えた。

そして私は彼女の下のお子さんのお眼鏡にかなった。
当時、幼稚園年長組の次男くん。
ちょっと落ち着きのないところを彼女は気にしていたようで、小学校になじめるかも人並みに心配していた。
実際に小学校にあがってからは、やはりというか、大変だったという。まったく授業に関心を持たず、一年生の六月なかばになってもまだ自分の名前を書けずにいた。
その次男くんが、ある日、私に勉強を教えてほしいとおねだりしたらしい。
さっそく彼女から打診があり、そのころ高校一年だった私は、学校が早く終わる日だけ家庭教師のバイトをすることになった。その数年後、次男くんは私の高校の後輩となる。

そんなこんなで、私も彼女と年代を隔てて交流するようになった。

母のいないところで会う彼女は、いつもと何ら変わらないのに、不思議といろいろ打ち明けることができる雰囲気をまとっていた。
熱心な母親と違って私は創価学会になじめないこと。
いずれはキリスト教に改宗し、修道女になりたいと考えていること。
イギリスへの留学が決まったときも、家族以外にまっさきに伝えたのは彼女だった。それは次男くんの家庭教師をやめなければならない事情もあったが、やはり彼女に聞いてほしかった。

「まあ、世界中どこ行っても馬鹿ばっかだと思うけどさ、せいぜい頑張ってきな」

素直におめでとうと口にするひとではなかった。

留学中、次男くんと、その兄上である長男くんに宛てて、イギリスのお菓子を贈ったりもした。お礼の手紙が、次男くんから届いた。
おかあさんがおかしちょうだいってまいにちうるさいです。
目に浮かぶようで、笑ってしまった。
イギリスで年を越し、一月に阪神淡路大震災が起きたときに、彼女からはじめて手紙が届いた。
彼女の弟さんが神戸に住んでいることを知っていたから、心配していたところだった。
幸い弟さんは出張中で被害は免れたとのことで、ひとまず安心した。

「あの美しい神戸の街並みは今は見る影もなく、瓦礫に覆われています。あなたが帰ってくるまでに復旧できるとはとても思えませんが、ゆっくりと街も人も立ち直って行けるよう、弟は微力を尽くすつもりでいると語っています。私も遠方から何か支える方法が無いものか、模索しています」

彼女の縦書きの手紙は、なんというのか、ふだんの彼女からはちょっと想像がつかないくらいふつうで、そして、聡明だった。

彼女の弟さんというひとは実はプロテスタントで、若いころからYMCAの活動のため途上国に長期滞在をくりかえしているような経歴を持っていた。
震災のころには塾の講師を勤めながら鍼の専門学校に通いつつ、たまに時間が明くとまた海外ボランティアに飛び出していくのが常。奥さんもその活動を通じて知りあった方で、仕事の都合がつけば同行することも少なくないとのことだった。
口の悪い彼女は「あの耶蘇夫婦」と呼んでいて、私ははじめて「耶蘇」ということばを現実で耳にし、不覚にもおなかを抱えて笑ってしまった。

大学時代に私がカトリックに改宗するときは母に執拗に懇願されて、一応、説得の電話をわざわざかけてきたこともあった。

「あんた本気だったの?うちの弟も言ってるけど、日本人にキリスト教は合わないんじゃない?」
「大丈夫。創価学会はもっと合わないから」
「あ、それは分かるわ。私も合わない。期待はずれだったなあ、ほんと馬鹿ばっかで」

説得のはずだったのに、その後、しばらく彼女となごやかに談笑して電話を切った。

大学を出て、不登校支援の仕事についてからも、私はよく彼女の家でいろんな話をした。
彼女は変わらず私の理想や夢をあっさり否定してくれたが、へんに褒めてまわる母親よりもずっと身近に感じた。

彼女は大の映画ファンでもあった。私と趣味が似ていたから、しょっちゅう一緒に映画館へ繰り出した。「タイタニック」は、確か彼女は三十回は観たはずだ。

「だってテレビで観たら絶対しょぼいでしょ。映画館でやってるうちに観ておかないと」

そう言って、暇さえあれば映画館へと歩いていった。一駅ぐらいなら思いついた瞬間に徒歩で出ていってしまうひとだった。

母の死後も交流はとぎれなかったが、私がさまざまなことで精神的に追いつめられていくに従って、だんだん彼女の軽口にもたやすく傷つくようになってしまった。
それでいてなお、私が父や兄から逃げる先は、いつでも彼女のところだった。
最終的に主治医が父親を呼び出したとき、いっしょに来てくれたのも、彼女だった。

ついに私が家を出たのちは、私とたまに会いつつも、男だけになった実家に何かと差し入れをしてくれていた。

口はほんとうに悪いし、たいていのことを否定する一方、彼女は私にとってとてもまっとうなひとでいつづけた。

母親がわりというのとは違う。
でも友人と呼ぶのもなんだかためらわれる。
私はいまだに彼女との間がらをどう説明すれば適切か、よくわかっていない。

数年前に彼女の親御さんの介護がはじまり、すっかり多忙になった彼女と話をする機会は各段に減ってしまっていた。

昨夜、その彼女に電話をかけた。

「ちょっとあんた、今どこにいるのよ」

第一声がこれである。いつものことだ。

「引っ越すって話はしたでしょ」

事件があった直後に、私はやはり彼女にことの次第を伝えていた。
それからはほとんど話せずじまいだったのだ。

「そりゃ聞いてたけど、なんか引っ越すかもぐらいの漠然とした話だと思ってたからさ。で、どこにいるの?県内?」
「お父さんに絶対に言わないって約束してくれる?」
「言わないわよ。馬鹿馬鹿しい」
「あんたの長男くんの母校のそば」
「えっ、あのへん?なんでまたそんなとこに?」
「まあ市役所といろいろあって」
「ふうん。で、いつ引っ越したのよ」
「一ヶ月くらいまえかな」
「じゃ、もう生活に慣れたでしょ」
「いや、それがおとといまで寝こんでた」

彼女の声が低くなり、早口になった。これもいつものことなのだ。

「あんたさあ、いい加減にしなさいよ。心機一転すんならしっかりやりな。どこ行っても馬鹿ばっかなんだからしっかりしてないとあんたまで馬鹿になるわよ」

彼女はほんとうに変わらない。

天才は孤独なもんよ。
「馬鹿」以外には、それが彼女の口癖だった。

しばらくあれこれ話したあとで、彼女が遠慮会釈ないあくびをした。

「眠いからそろそろ寝るわ。切るね」
「うん。遅くまでごめんね」
「とにかく、身体に気をつけて頑張りなよ。あんたのお父さんは一生あのままだからさ。大変だったろうけど、あんたにとっては良い機会だったかもよ。活かしな」
「あのさ」
「なによ」
「そういうこと言って良いのはあんたとか私なのね。うちの父親、自分でそれ言っちゃうから」
「ほんっと馬鹿よね」
「ね。じゃ、あんたもコロナとかあるし大事にして、旦那さんともども元気でいてよ」
「ありがと。もう二度と会わないかもしれないけど」

一瞬、ことばをなくしそうになった。

「どこかですれ違うとかなさそうだし。私も老いていくしさ。ボケちゃってあんたのこと忘れちゃうぐらい、あるでしょ」
「あんたはのうのうと百まで生きるよ」

なんとか吐き出した一言に、彼女は本気の悲鳴を上げた。

「そんな長生きなんてしたかないわよ。馬鹿ばっかりの世の中でさ。百まで生きるのはうちの母親とあんたの父親よ。馬鹿ほど死なないんだからやんなっちゃう」

私は笑った。

変わらない。

昔、彼女に尋ねたことがある。
どうして草加学会に入ったのと。
彼女はこう答えた。

「キリスト教って、愛でしょ。でも仏教は、慈悲なんだって。それで決めた」

だから、彼女の言う「馬鹿」は、文字どおりではない。
それを見抜けない馬鹿が、確かに私たちのまわりにはあまりに多すぎた。

じゃ、おやすみ。

何ごともなかったかのような、いつものそのあいさつで、お互いに電話を切った。
そうして、気づいた。

ずいぶん久しぶりに、あいそ笑い以外で笑ったな。

私が彼女の家に行ったり電話をするときは、いつでも笑いたいときだった。

もう会えないかもしれない。

それは事実で、けれども、なんとなく、また会いたいとは、そんなに強くは思わない。
でも、また電話をしたくなるだろう。笑えなくなったときに。
そのとき、もしも彼女の訃報を聞いたなら、そっとこころの中で手をあわせるだろう。

あんた、しっかりしなさいよ。
人生、ずっとまわりは馬鹿ばっかりなんだから。

そのことばを思い出して、きっと私は泣くまえに、笑ってしまうだろう。

いつかは訪れるその日まで、どうか、あなたのままでいてほしい。

そう私が望んでいることなんて、彼女はきっとお見とおしで、他人のことより自分のこと集中してしっかりやりな、そう、ぴしゃりと跳ねつけることだろう。照れ隠しでもなんでもなく。

そんな彼女の名前が「マリア」によく似ているのだから、ほんとうにもう、馬鹿だなあと私はまたも笑ってしまうのだ。




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