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決断を忌避する「男」たち

 前回の続きですが、『メロス』に登場する暴君ディオニスこそ、「決断疲れ」に憑りつかれた人物だったように思える。どの人間を信じていいか、疑っていいかわからなくなり、すべての人間を疑うようになってしまった者。これがすべての他者を信じることによって決断疲れを回避するのであれば他者に及ぶ危害は少なかったかもしれないが、残念ながらディオニスにはすべての他者を信じつくす勇気は備わっていなかった。

 目を転じてみれば、学校の国語の授業で読む、いわゆる「定番教材」には、「決断することの恐怖」に憑りつかれた多くの男性が描かれているということに気づく。

太田豊太郎の場合

 最たるものは森鷗外『舞姫』だろう。

又彼少女との関係は、縦令彼に誠ありとも、縦令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して断てと。是これその言ことのおほむねなりき。(中略)貧きが中にも楽しきは今の生活なりはひ、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑く友の言ことに従ひて、この情縁を断たんと約しき。

森鴎外『舞姫』

 恋人であるエリスの妊娠が発覚し、「嗚呼、さらぬだに覚束なきは我身の行末なるに、若し真まことなりせばいかにせまし」と悲観的になる豊太郎に対して相沢は「今のような関係は断て」と忠告する。豊太郎は「この関係は断とう」と相沢には約束するものの、その後エリスとの関係を断つことはできずに、嬉々として生まれてくる子供のおむつを縫うエリスを見るばかりである(そのとき、涙を目にためるエリスは描かれるものの、豊太郎の心情は語り手である豊太郎によって描写されていない)。

 エリスとの関係を宙づりにしたままの豊太郎は天方大臣から「一緒に日本に戻らないか」という誘いを受け、豊太郎は承諾する。その後、エリスの部屋へと戻るものの、豊太郎はそのまま倒れてしまう。そして、豊太郎が目覚めたころには、すべてが終わっていた。エリスとの関係は相沢がすべて清算し、結局エリスは発狂してしまう。豊太郎は何も決断しないまま、日本への帰路につく。豊太郎は手記の最後で相沢に対して「嗚呼、相沢謙吉が如き良友は世にまた得がたかるべし。されど我脳裡に一点の彼を憎むこゝろ今日までも残れりけり」と書き残すが、その真意はいかほどだったのだろうか。自らの自由意志によるエリスとの関係の破局を、すべて代行した相沢に、果たして憎しみは本当にこもっていたのだろうか。

「先生」の場合

 『舞姫』と共に定番教材の双璧をなす夏目漱石『こころ』も、決断に対する恐怖に悩まされた主人公を描いた物語だ。

 上巻では「先生」として描かれる「私」は、親友であると同時にライバルでもある「K」との駆け引きに勤しみながら、「お嬢さん」との結婚をいつ「奥さん」に切り出すかという決断をずるずると先延ばししていく。もし、「K」に対して「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言う前にその決断ができていれば、この駆け引きも無用であったし、もしかしたら「K」は自害せずに済んだのかもしれない。

 その後、「私」は無事「奥さん」に対して「お嬢さん」との結婚を切り出すことに成功したものの、今後は「お嬢さん」と結婚することになった、ということを「K」に対して告げなければならない、という別の決断に迫られることになってしまった。みなさんもご存じの通り、やはり「私」はその決断をすることができずに、結局「K」は自ら命を絶ってしまう。

 「K」もまた、決断を遅らせている男の一人だった。「K」の遺書の最後にはこう書き遺されていた。

もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろう

夏目漱石『こころ』(四十九)

 二人の「男」の「決断に対する忌避」によって、物語は最悪な方向へと向いてしまったケースだった。

「下人」の場合

 芥川龍之介『羅生門』に登場する「下人」の場合はどうだろうか。

 物語の最後、下人は盗人になることを決断し、老婆の服をはぎ取り、姿を消す。この場面を見れば『こころ』の「私」のように決断することから逃避することせずに、自分の人生を選択している人間のように読むことができる。ただ、その決断のプロセスを見ると必ずしもそう言えないことがわかる。

「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」

芥川龍之介『羅生門』

 これは老婆が「生きるためには死人から髪を抜かなければならない」という言葉を聞いたあとの下人の言葉である。盗人は老婆が口にした論理をそのまま応用して盗人になることを決断している。つまり、下人がした決断の根幹には、下人自らの思想・主義ではなく、老婆の論理の模倣があった。自らの生の在り方や他者との関係の保ち方などの要素を自ら考慮することなく、他者から天啓のようにもたらされた論理を用いて盗人としてのアイデンティティを瞬間的に構築する。

 このように、学校で読まれる近代文学には「決断」に対する忌避や、「決断」を他者の論理にゆだねる男たちの姿が描かれていることがわかる。
 このような近代文学を学校の場で読む意義はどこにあるのだろうか。今回と次回は国語科教育の内容に偏ってしまうが、考えてみたい。

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