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Flipside

過去は、振り返らない。

悲しい出来事、苦しかった日々、そんなことほど、振り返りたくないと願い、記憶に蓋をしようとする。

逆に楽しかったこと、幸せだった日々、そんなことは思い出してその度に少しだけ口元が緩む。

けれども「楽しかった」も「幸せだった」も過去の記憶に過ぎなくて、今の自分との距離を感じては寂しい気持ちになったりもする。そんな、表裏の感情だった。

過去があるから今の自分がある。

そんな風に人は言う。間違ってはいないだろう。振り返ってみれば、昔苦しかったことも辛かったことも、それが今の自分につながっているのだと思うことは沢山ある。

ひょっとするとそれは無理矢理こじつけているのかもしれないけれど。

けれど、本当に辛かったこと、苦しかった経験はいつまでもそのまま、心に残り続けるのだった。記憶に蓋をして。

僕は、人を信じようとする性格だと思っている。

子どものときよりも賢く、あるいは狡くはなったけれど、基本的にはあるポイントに到達するくらいの関係性を築くことができた人に対しては、あまり疑うということをしない。

いや、してこなかった。

けれども、その性格を知ってか知らずか、裏切られた(と自分が思っている)経験が片手で数えることができるくらい、ある。

たとえばどうだろうか。信頼していた人が、裏で僕の悪口を言っていたとしたら。

たとえばどうだろうか。信頼していた人が、僕のもとを去り、別の人のもとへ歩いて行ったとしたら。

そんな経験を重ねて、僕はその経験や記憶に蓋をしたつもりだったけれど、人を無条件に信じることがどんどんと難しくなっているように感じている。

そんな感情にも裏と表の側面はやはり存在しているから、ポジティブに捉えれば、それは人に裏切られても以前よりもショックを受けなくなっている、ということでもある。

けれども、信じたいと思う大切な人たちを信じたくても信じることができないときがあるというのは、僕にとってもしんどいことなのだった。

人の好意や言葉に裏側の意味が隠れているのではないかと疑って、素直にそんな気持ちや言葉を受け取ることができない。それを責めても、克服していけるものではないのだけれど、責めては葛藤を抱える。

そんな繰り返しの日々が、稀に訪れる。

過去は振り返らない。

それはとても耳障りがよく聞こえるけれども、過去が感情を規定してしまうことがある僕にとっては、その言葉どおりに生きることができたらどれほど良いのだろうかと、そう思うのだった。

けれども現実はそうではないから、一人で悶々としては、訪れる感情の波の狭間でもがく僕がいる。

僕はこんな風に自分の弱さを公開して、何がしたいのだろうか

そう思うことはある。

きっとこうやって僕が言葉にすること、そのことによって僕の心が整理されたり、救われたりすることがあるのだと思う。

そしてそうやって、蓋をしてきた過去を少しずつ振り返り、その時に感じていた辛さや悲しみを消化させようとする。

裏切られた、と思っているのは僕の主観で、その当人がどれほどそんなつもりだったかは正直、わからない。

けれども僕の気持ちは、こんな風に言葉にしなければならないほどに傷を負うものだったのだと、それだけははっきりとさせておきたい。

そして何年経っても癒えることがない傷を克服したいと思いつつ、また新しい傷を負うのではないかという恐怖を感じながら、後味が悪い気持ちでこのnoteを書いているのだった。

人は結局一人なのだという当たり前の事実を感じながら、誰かを心から信じたい、信じたいと願いながら。

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