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罪を思う

「自分の罪」と聞けば、何を思い出せるか?

生きていれば、大小さまざまな罪を冒している。自分が犯罪者にならないとも限らない。常にそれを考えながら生きることも辛いが、ときにそれに向き合う必要もあると思うのだ。もし思い出せる罪があるなら、自問から始めたい。

その罪と向き合う必要はあるか?

嫌な記憶は積極的に思い出さない人が大半。でもそれは、その後の相手や自分に、多かれ少なかれ影響を及ぼしたもの。誰もが罪を犯している。
それなのに、いま自分は、犯した罪について1日の長い時間をかけて考えている。なぜこの罪と向き合うのか?

被った相手の被害や、心情を償えていないからか?相手のことを推測するに、自分と比べて罪の自覚が足りないからか?自らの解釈に閉じないためか?向き合う理由は何か?

冒した罪はいま現在どうなっているか?

あなたのその罪は、過去のものかもしれないが、いま現在の出来事として考えることができる。それは償われたものか?そして、時効を過ぎたかものか?すべて気にすることもないが、深く反省すべきこともある。なんとなく過ごせるのなら、その罪は無罪として消え去るのか。否、全くそんなわけもない。いま、過去の罪はどうなっているか?

その罪の重さを知っているか?

やった側とやられた側の重みは違う。加害側の過失の意識が薄かろうと、被害側の被害の重さとは関係しない。立ち位置が異なる以上、お互いの相手のことを100%伺い知ることはできない。それを加害側が推し量ることもできない。他方から、それぞれの重みを知っているか?

その罪に何ができるか?

何ができるか。まず、相手の心境を知りたい。いまどう思ってますか?そのときどう思いましたか?もし謝ることが許されるなら、聞いてもらえますか?怒りや悲しみの的になるなり、可能なら償いたい。それは過去の出来事や自覚のない出来事でも、同じように思えるか?

そう思わせる罪をどう捉えるか?

考えたところで、どこまで行っても、加害側(自ら)のエゴとは切り離せない。でも、どこまでいっても、加害に対して被害がある。罪を決めるのは被害を受けた側だ。

それでも、罪を思う。加害者にはそうすることしかできない。反省しながら、勝手な憶測をしながら、いま向き合えるその罪を大事に思いたい。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。