読書メモ 2 「口づけ」

(1)
「俺はね、ここを去るにあたって、世界じゅうでせめてお前くらいは味方かと思っていたんだよ」思いがけぬ感情をこめて、ふいにイワンが言った。「だが、今こうして見ていると、お前の心の中にも俺の入りこむ場所はなさそうだな、隠遁者の坊や。《すべては許される》という公式を俺は否定しない。だからどうだと言うんだね、そのためにお前は俺を否定するのか、そうなのかい、そうだろう?」
 アリョーシャは立ちあがり、兄(イワン)に歩みよると、無言のままそっと兄の唇に口づけした
~ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(第五編 プロとコントラ)~


(2)
    ぼくのコーデリア!
 よい答えは甘い口づけのようなものだ、とソロモンは言っている。君も知っているとおり、ぼくはたくさんの問いを出す。世間の人々はこのことを非難の種にしかねない。そうなるのは人々が、ぼくの問うているものがなにかを理解しないせいだ。なぜなら、ぼくの問うているものは、君が、君ひとりだけが理解しているのだし、君が、君ひとりだけが答えるすべを知っているし、君が、君ひとりだけがよい答えを与えるすべを知っているのだ。よい答えは甘い口づけのようなものだ、とソロモンは言っているだから。
    君のヨハンネス
~キルケゴール「あれか、これか」(八.誘惑者の日記)~


(3)
裁きをを行う際のえこひいきは良くない。
罪ある人に無罪を宣告する裁判官は
諸国民全員に呪われ、諸民全員が彼をいみきらう。
しかし、罪ある者のすべて有罪にする者らには
すべてがうまくゆき、
彼らは繁栄でもって祝福される。
率直な答えは
友情の口づけと同じように良い

~「旧約聖書 箴言」~



 (3)は法廷での振る舞いに関して述べつつ、証言台に限定されず、日常的な人間関係における一般道徳、一般倫理原則として敷衍され、語りかけられている。ここにおける「口づけ」とは、「率直な答え」に対する比喩表現として用いられている。

 一方の(1)、(2)に関しては、一般道徳、一般倫理原則を踏み越えてしまった者に対する、「赦し」を表徴した行為、つまり肯定的な沈黙として「口づけ」が用いられている。

※(1)はイワンの自作小説(有名な)「大審問官」におけるキリストの行為の剽窃、(2)の場合は、(3)に記された格言のいかにも稀代の「誘惑者」らしいいじらしいくらい狡猾な引用と、読者を小説内に設定された二つの異なる空間に左右の手を引っ張らせるという、いずれも特例中の特例、脳味噌グラグラなシチュエーション。


 一般道徳、一般倫理原則を踏み越えってしまった(がそれでも愛すべき)者は、普遍言語を持たない、つまり互いに言葉で理解しあうことができないため、彼を救わんとする者は、言葉以外の最適な表徴を探さなければならない。


 真の人間力は、言葉が全く使い物にならない地平で試される。




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