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独我論と幼児性──絵画について

 アルバイトで二科展の手伝いをしていた。


 二科展とは、要するに子供向けの絵画コンクールである。絵を送ってくるのは幼稚園から中学校までぐらいの歳の子が中心で、描く過程に学校や先生たちの介入は大なり小なりあれど、子どもたちの自由な発想で描かれた絵はどれも良いものだった。中には絵画教室やアートスクールに通う子どもたちによる反則級に上手い絵もあり、専門学習の効果はこれほどまでに高いのかと舌を巻いた。


 そんな中、最年少である満3歳の幼児が描いたペンギンの絵に目を惹かれた(ぼくはペンギンが好きだ)。上半身は青で塗りつぶされ、下半身は白で塗り潰れつぶされていた。目は黒で塗りつぶされ、くちばしは黄色で塗り潰されていた。いかにも小さい子どもが描いたような、何年か経てば描いた本人も描いたことを忘れてしまっていることが想像に難くないといった“ラクガキ”感覚の絵だ。シンプルな分、筆圧と色彩がきわだっており、むしろマーク・ロスコの画風を彷彿とさせるそのペンギンを見つめながら「やっぱりテクニックよりも幼児期のプリミティブな表現の方がすごいな」的なことを改めて思い知らされた。


 ぼくが昨日書いた記事

に引き付けていうと、幼児期の感覚は限りなく独我的な主観性に満ちているため、経験によって拡がる知覚や大人から教えられた絵画論の蓄積から得たものは(当たり前といえば当たり前な話ではあるが)子供から大人になる過程の拾得物であるところの客観性から到来したものに該当する。




 そのため「完全な主観的世界の発露」であるところの3歳未満の子ども(死を知らぬ者、永遠の渦中にいる者)の描いたペンギンの絵は、大人の指揮によって描かされながら、大人によって描かされていない。


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 二科展の選考会では十名ほどの画家たちが審査員を務めている。仕事の合間にぼくは二人の審査員と話をした。

 一人は柔らかな雰囲気を纏った妙齢の女性画家で、彼女に「どんな絵を選んでるんですか?」と聞いたところ、

「やっぱり大人の手が加わってない絵ね。ほら、これなんかだと、この部分はあきらかに大人が描いてるわ。手伝っているつもりなのかもしれないけれど、このコンクールはあくまで子供が自分で描いた絵を募集しているわけだしね」


と穏やかな口調で言った。


 彼女は「子どもの感性云々」といった芸術論以前に「本当にその子が描いているか」を見抜く作業が審査員には任せられていることを教えてくれた。至極真っ当な話だ。絵の世界を知らないぼくは、あまりに技巧的な表現がされている場合を除いて、その絵の中に「本人が描いてない部分があるかもしれない」なんていう疑いの目を持つことを知らなかった。


 ぼくも彼女も「大人の介入」を警戒している点では同じだ。しかしそういった「不純物」をあくまで「感性」のレベルで懸念していたぼくに対して、実際に手を動かして絵を描いている彼女は「行為」のレベルで注意している。評論家を気取るぼく自身の幼児性を暴かれた気がした。


 もう一人の審査員は三〇年前から審査員を務めている老齢の男性で、彼もまた「大人の手が加わっていない子どもの絵」を評価する点では同じだったが、彼はもう少し具体的な表現論であるところの色遣いや構図の取り方において「大人と子どもでどう違うか」を話してくれた。


 彼は「自分の教え子や弟子とどう付き合うか」や「選考基準は結局審査員一人一人違う」といった話もしてくれたが、印象に残ったのは「画家としての私の使命」について話してくれたことだ。


「昔はアルバイトの人達にギャラとは別に二科展のチケットを一人一人にあげていた。今はそうじゃなくなったけど、本当はそうしたい。別に二科展のチケットじゃなくても美術館のチケットでもいい。一人でも多くの人に、絵画と接する機会を用意したい。それが私の使命だと思うからね」


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