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人種差別解消"啓発CM"の是非についてのいろんな気持ち

先日のアカデミー賞でのロバート・ダウニー・Jrのキー・ホイ・クァンへの態度が話題になっているので、人種差別に関して色々と思い出したので書いていきたいと思う。


もう話題として全く旬ではないが、外国人として20年間暮らした私の視点から人種差別について書く。

地元では反人種差別"啓発CM"が放送されていた時期がある。当時放送されたオーディション番組からデビューしたR&Bグループが全員外国系で、そのCMにキャスティングされていた。

この手の広告は表現手法によって感じ方は全然違うと思うのだが、当該のCMは具体的な加害者を描いて責め立てるタイプのものだった。皆さんはこういった表現手法は好きだろうか?嫌いだろうか?

正直、私自身としてはむしろ反発が来るような気がしてとても嫌だった。

例えが悪いかもしれないが、とりあえず「児童虐待はよくない」という趣旨のCMでシンママを登場させてしまうと「そこのイメージ固定をしちゃうのか?児童虐待じゃなくてシンママの話になっちゃわない?」とは思うのだ。

こういうのは差別を受けてない人は「(いろんな意味で)リアルじゃない」と感じるし、差別を経験してても「やっぱり受け入れられない存在なんだな」となるのではないか。

ちなみに自分は両方の気持ちである。
それと、そういう差別を知らない子供達が外国人は被差別対象だと知ってしまって、なんとも思ってなかった外国人をそういう目で見るようになる、っていう意見も読んだことがある。まあ確かにそうかもしれない。

「被害者がいます!」と啓発するということは、学校なんかでいうところの先生がホームルームで「〇〇さんがいじめられています、やめてください」と言っている感じがしないだろうか。そういうのって「もっとひどくなるんじゃないか?」って怖くならないだろうか。
強い力を持つ人(ここでいう先生、あるいはCMを放送するメディア)に"言いつけた"、"味方につけて逆襲している"ようにとられると思ってしまうのだ。もちろん加害者が悪いのはそうなのだが、加害者側にはそう映るよね?という話である。

「誰もが差別をしている可能性があるよ(そしてそれは悪いことだよ)」への全体的なモヤり

内容によってだが、どことなく感動ポルノみを感じるというのもある。可愛いそうな人を哀れんでる自分、配慮できる自分優しい、みたいな(作る人も、賛同する人もしかり)。
しかし賛同する人が被差別者を具体的に助けてくれることってないし、むしろイジメてくるのってそういう人だったりするよなーっていうのを過去の人生経験で知ってしまっているとどうもすんなり受け入れる気になれない。よってこの手のCMを「いいね!」「感動した」と言う人の方が個人的には脅威かもしれない。
というのも、私は「道徳を重んじる校風」が気に入って入りたかった学校があった。しかしそこにはキリスト教徒ではないと言う理由で入学できなかった過去がある。

この出来事について私は"差別的"とは思わないが、discriminationの一種ではあると思う。そして自分はその措置に理解を示して受け入れている。

結局のところ彼ら/彼女らは自分たちだけの閉じた世界の中で「差別は良くないよね」「誰もが知らずにしてるかもしれないから気をつけようね」と言っているのだ。つまり実際に価値観の異なる人は既にその集団から排除済みなのに、自分たちは差別しない善良な人でいれている気になっている。これが"騙されている"というか、洗脳されているようですごく不気味に見えてしまう。discriminationをした環境があってこその優しさだと気づいていない感じがあるのだ。もっと言うとdiscriminationフィルター後の集団じゃなくても、そういう暴力から無縁な人も同じで、無縁で暮らせていることに気づいていない気がする。本当に暴力を知っていたら、現実はそんな緩くないことは知っているはずだと思う。

被差別経験者の一員からすると、そういうこと言う人は(無意識の)嘘つきだと感じるし、偽善的だと思う。「(いち文化圏の中に来た外国人に対しては)誰もが差別をしている可能性があるので、差別になりえない行動だけしましょう」と唱えることは「共存と理解が進む」ではない。その先にあるのは「お互いを理解しないまま腫れ物扱いして、接触を避ける」社会であり、そしてそれは実在していて、どちらにとっても居心地が悪い印象だ。それならいっそ正直に「異なる価値観は受け入れられないこともある、だからお互い触らないで生きよう。」と言ってほしいのだ。その方が現実を映している気がするから、素直に受け入れられると思うのだ。ただしそれが理想的ではないことも私は理解しているつもりだ。
個人的には「いち文化圏の中では全員がそこの規範に従う」社会が良い、というかより互いに仲良くできるので好きだ。自分の失敗談も踏まえた上での考えでもある。

啓発すべき相手は誰なのか?と考えてしまうモヤり

本当なら啓発は話を聞かない人にこそ聞いてもらわなきゃいけなのだが、そういう人は強いメッセージを送っても聞いていないことが多い。話を聞くタイプの人、かつ内容に賛同できない人には不快感だけが残り、その対象集団と関わることが面倒になる。すると本気で困ってる人は誰も助からないというジレンマに陥る。ここで「賛同者は大概助けてくれない」と言う話へループする。

そもそも「特定の属性が嫌いでもいいじゃない」という気持ち

常々思っているし書いているが、誰に対しても危害を加えるのは絶対にダメなのだ。逆に危害さえ加えなければ嫌いだっていいのだ。人間だもの。そして私は嫌いな社会から逃げてきた。それはダメじゃないと思っている。


【おまけ】NikeのCMの話

2020年11月末から、Nikeが「差別批判」?をテーマとしたCMを放送して話題になった。

分断を煽る表現は良くないというのはもう、そう。それはそうなのだ。普通のCMでもそうだし、CM以外でもそうだ。いじめる側の属性(人種・民族・宗教etc)は描くべきじゃないと感じた。

「日本人は差別がない国なのに」と言う意見も散見されたが、それは大げさだと思っている。ただし「諸外国より圧倒的にマシ」という意見は正しいのが肌感である。悪いイメージを伝えているとは思う。そういうコメントも散見されたし、"もし"炎上する予定じゃなかったのならこの表現は失敗だったとは思う。

当該CMは「コートに出てる自分は差別されてる時の自分では無くなる→それをナイキはサポートします」的なコンセプトにも見えるので、一般的な啓発CMと趣旨が違うかもしれない。というか「マイノリティはスポーツでがんばろう!」という意味にも取れてしまって、差別がある構造を肯定してるようにも取れちゃうのがなんだか嫌な感じだ。

"Not for you"なのか?

「このCMでキレってるやつは"日本に差別はない"と主張する差別主義者!Nikeの客じゃないんだよ!」といった声について、前半の真偽はさておき、客じゃない/切り捨てたい客なのはそうだと思う。
他にも散見される指摘としては「差別を受けていてスポーツできない人は弱いんだからいじめられてろ」という意味に取られかねない危険性だ。確かに、それは盲点だった。私は差別をされていたし、運動音痴で人気者になれなかった人間だ。そういう意味ではナイキの応援対象でも顧客でもなかったということになる。そりゃ"Not for me"だわ!と思う次第だ。しかしナイキユーザーはスポーツをする人だけではないことは頭の片隅に置いておきたい。

政治・企業・広告を切り離せるか?

販促CMでやることとコーポレートCMでやるような感じのことを同時にやってる気がしないでもない。個人の課題(CMで描かれる属性の人々による差別行動=いじめの類)と社会の課題(社会の中に存在する差別による格差=参加機会の差等)がごっちゃにされているように思う。例えは悪い気がするが、「頭痛を止める薬が必要」と「頭痛に悩む人を減らしたい」はイコールでない部分がある。前者は対処療法、後者は予防・治療を含むものである。

そして行動が一貫してなくて不誠実な印象がどうしても拭えない。車メーカーが「燃費いいよ!」とCMを打っていて、「テストで不正してました!」ってニュース出たとき、買う気になれるのか、相互作用してイメージが下がるのではないかと感じる。

尚、朝鮮総連が制作に関与してるならそれはそれで問題とは感じる。内容の整合性の取れなさと政治的問題点は既に指摘されている通りなのでここでは触れない。とにかく組織の意味合いというか、機能を考えたら人権意識的に容認できない。

政治的な(民族)対立と差別を一緒にすべきではないし、"見下し型"差別と"引き離し型"差別は一緒にすべきでない。この"見下し型"差別と"引き離し型"差別という言葉については以下の投稿をご覧いただけると幸いだ。

もっと言うと"差別と闘う人を応援する趣旨のCM"で"中国で弾圧されてる少数民族の強制労働によって作られた製品"を宣伝されるのはちょっとなあと思う。当該企業が人権侵害に加担していて、企業がある国のアジア人被差別者は(コロナ→BLMの流れで)問題視せず、その上で日本ではこの広告を打つというのも大きなモヤりポイントだ。人権問題の加害者から「私たちは良いメッセージを送っています」という宣伝があまりにもグロいなと思う次第である。racismとdiscriminationの両方を経験した身としてはこれ以上不気味なことはない。銀行強盗に¥1000恵まれたら喜んで受け取るのか?という問いに通ずるような嫌な感じがある。

更に昔、ナイキが"スケートボードに乗ったニカブの女性がLGBT当事者に変化する"内容のCMでも炎上してたのも思い出される。この件はムスリムの方が意見のビデオを出しているので当事者でない私からは詳細はノーコメントとさせていただく。ただ西洋的な価値観はすごく差別的だと実感するよなあと。自分らの物差しで人権後進国認定してる感があり、自分たちが啓蒙して"あげる"んだという(間違った)キリスト教的教えが背景にあるような気がした。

「全日本人を責めてる」とは思わないが「日本社会をナメてる感」はある

日本人が敵対国での弾圧的行為を肯定的に捉えているわけはないし、文句言わず西洋的価値観を受け入れるだろう、あるいは受け入れるべきである、という傲慢さを感じる。

ナイキは他にも問題が多く告発されてきたが、それはまあ置いておいて。他にもウィグル人を奴隷として使っている企業もあるようだが、みんながこういうCMやってるわけではないし。
とりあえずその企業が取る手法と表現としては最悪だ。メッセージの表現が稚拙で、それで複雑なテーマに踏み込んだ結果分断を煽った。そしてそれで金儲けをするということを思うと、感動している人は現実知らなくて呑気だなーと思う。
自分は理解としてはナイキは:社会主義の元に行われる弾圧や人権侵害に興味がなく、国外の価値観を尊重する姿勢もなく、差別被害者に対して平等ではなく一部の被差別者だけに目を向け、"安全"なところから"おとなしい人達"をtriggerしてお金を稼いでいる、そんな企業に落ちた。私は積極的に不買するタイプではないが、スニーカー買い替えをちょうど検討していたところなので、ナイキは完全に選択肢から外れたし、大事に使っていたナイキ製品を手放す気になった。asicsかオニツカタイガーでも買おうかなという気になった。

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