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『スプラトゥーン』の偶然的な世界が私たちの社会構造に似てしまう理由


任天堂の人気ゲーム『スプラトゥーン』

 私も『スプラトゥーン2』の頃からはまっており、『スプラトゥーン3』はいまも熱中している、大好きなゲームである。

 ゲーム自体をそもそもやらないが、このゲームだけには特別な思いがある。娘が小さい頃、一緒にはまったゲームであり、唯一、娘と心が通じ合える時間をもたらしてくれたものだったからだ(笑)。

 一方で『スプラトゥーン』は人格を破壊してしまうくらいに感情的になってしまうゲームということでも有名である。メディアにも取り上げられている。

 
 私も、恥ずかしながらつい感情的になってしまう時がある。叫んだり、悪態をついたり。娘もいつも奇声を発したり、物にあたったりして、母に怒られている。

 それにしても、どうして『スプラトゥーン』というゲームはこうも感情的になってしまうのであろうか。それについては、すでにさまざまなことが言われているので、それについてはここでは語らない。

 感情的になってしまう要因というよりは、世界(=ゲーム)の勝敗構造と、そこから見えてくる感情の発生、および意志や責任といった問題について、私なりの雑感を述べてみたい。


『スプラトゥーン』のゲーム構造

『スプラトゥーン』というゲームは、極めて偶然的、確率的要素の強いゲームである。オンライン上で、まったく知らない者同士でチームを組み、知らない者同士で戦う。もちろん仲間同士でできるモードもあるが、基本的には、「マッチング」が醍醐味のチームバトルゲームである。

 ランクというものがあって、ある程度ゲームスキルのレベル感が一緒の者同士がマッチングされると、さしてストレスは発生しないのだが、自分のチームの味方のレベルがあまりにも低い、空気を読まない、チームプレイができない、ということがままある。それだけが原因ではないにせよ、自分のチームが負け続きになってくると、このゲームはなんて不条理なんだと思ってしまうわけである。

 反対に、味方に恵まれ、勝ち続ける時ほど爽快なものはなく、自由闊達に戦えている自分を感じられる。

 この時の自分の感情というものは、前者の場合は悲しみや怒り、場合によてっは憎しみに満ち溢れている(苦笑)。後者の場合は、喜び、寛大さ、あるいは誇りのようなものにさえ満ち溢れている(笑)。

 喜びに満ちている場合、私(プレイヤー)は、このゲームがどんなに偶然的で確率的な要素に満ちていようと、そんな環境を勝ち抜いた自分の「可能性」であるとか、「成功」や「達成感」を、自分の「力」や「意思」で選びとったのだと得意げになることだろう。それは、きわめて能動的な態度である。

 悲しみに満ちている場合、私はこのゲームが持っている偶然性、確率的な要素を、激しく呪う(笑)。こんな不条理なことがあってよいものか、と。それは、私の意志によるものではなく、弱い味方のせいであるとか、マッチングの不運さであるとか、外部環境に、敗戦の原因を求めてしまう。そこに、自由などなく、私はきわめて受動的に、負の感情に隷従してしまっている。

私たちの社会構造と似ている?

 これ、ゲームといえばゲーム上の問題にすぎないが、現在の格差社会という環境がわれわれに与える感情に、どこか構造的に似ていないだろうか。

 うまくいっている者ほど、この世界はなんて「自由」で、「可能性」に満ち溢れているのだろうと感じることだろう。この世界を、自分は自分の<自由意志>で、自分の<責任>のもと、闊歩しているのだと。

 反対に、うまくいっていない者は、あらゆる行為=結果の原因を他責にすることであろう。そこに自由などない。世界は、不条理で、大人たちの企ててで雁字搦めで、自分の意志ではどうすることもできない、外部要因的な偶然性に満ち満ちているのだと。揚げ句、親ガチャ、会社ガチャ、上司ガチャという議論さえ出てきてしまう。

 だが、前者であれ後者であれ、これらは、行為=結果に対し、意志を後付けしているものにすぎないのではないだろうか。自分の意志や意図がそういう行為=結果を生んだのではなく、行為が先であり、意志はその後にやってくる。

 このことを、哲学者の國分功一郎『<責任>の生成』という本の中で、これら「行為」(=選択)と「意思」を混同してはならないと注意する。

意志と選択はしばしば一体とみなされます。選択がなされたならそこには意志があったのであり、意志があるから選択がなされるのだ、と。しかし、意志は心のなかに感じられるものであり、選択は現実の行為です・・・・・・僕らが意志と選択を同一視してしまっているのは、意志を使って選択の責任を問うということにあまりにも慣れきっているからです。しかし、両者はまったく別のものであって、まずはこれを区別して考えないといけない。僕らは不断に選択しています。何をするのもすべて選択です。それに対し、意志というものはあとからやってきます。後からやってきて、そこに付与されるものです。付与された後で、その選択が私的な所有物にされる。「この行為はあなたのものですね」ということにされる。そうして責任が発生する

『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』國分 功一郎 著 |熊谷 晋一郎 著(新曜社)より


『スプラトゥーン』というゲームと、リアル社会は違う、というものはもちろんあるのだが、行為=結果があり、それによって感情という主体が立ち現れ、そこから意志というものが後付けされる(かのようにみえる)という構造においては、かなりの類似があるのではないだろうか。

 ゲームであれ、実際の人生であれ、「勝負」により「勝敗」がつく仕組み=構造は、喜びと悲しみ、能動性と受動性という二局面の感情を発生させる。繰り返すが、「意志」のようなものが立ち現れるのは、行為およびその結果による感情の発生のあとである。

偶然的世界がもたらすものとは?

 これらの勝敗結果からもたらされる「能動/受動の感情」の発生という構造が前提にしている世界観は、この世界は、人間が予測できない偶然的あるいは確率的な要素によって成立しているというものである。
 
 しかしこれら偶然の要素に満ちた世界観、これらはいずれも勝者側にも敗者側にも都合のよいものになってはいないだろうか?

 勝者は、世界が偶然であることを前提に、そのうえで自分の選択が、自分の<自由意志>と<責任>のもと選択していたのだと、結果に対して意志を「後付け」、あるいは「上書き」できる。

 結果、勝者の理論は、あたかもそこに責任ある主体、自由な主体があったかのように言うことができる。そしてそれらは実際の「戦利品」という物質的なアドバンテージのもと、正当化されることだろう。

 さらには、君たちも真似できる、われわれのような「考え」と「行動」を起こすことができれば、同じような「成功」、「勝利」を手に入れることができるだろうと、マウントさえとってくることであろう。そして、偶然である世界=運だよねという議論に対しては、運も実力(選択と意思)のうちとさえ嘯くであろう。

 敗者は、世界が偶然であるということで、その結果を、外部のせいにする。それは自分の意志でどうにかなるものではない、予測不可能な確率的なものであると、他責にするであろう。そこには、自分の<自由意志>もなければ、<責任>もない。

 だが、世界をこのように受動的に捉えてしまう限り、敗者は負の感情に隷従してしまうことになってしまう。精神的な自由を得ることが難しくなってしまい、主体的な行為を制限し、より深い負の感情に陥るというループ構造に陥ってしまうかもしれない。

 

偶然的世界で<責任>は問える?

 世界は、予測不可能で偶然的な世界である、という考えは、長らく、<自由意志>および<責任>とセットの考え方であった。自由意志があるから、そこに「主体」が発生し、その主体に責任を問うことができるのだと。そうでなければ、主体に責任を問うことができない。

 世界が偶然的ではなく、必然的であるとすると、それらは結果に対して、原因をいくらでも他の要素に遡行できてしまい、他責になってしまう、主体に対し責任が問えなくなるというわけである。

 だが、偶然的な世界を認めたとしても、むしろ、責任がなくなってしまうというケースは、上記の敗者の感情の部分で説明した通りである。

 たとえば、ヒュームという十八世紀の哲学者は、この偶然的世界と責任の問題を喝破する。訳者による解説では次のようにある。

一般に、すべてが因果的必然性によって決定されているとするなら、自由意志などありえず、よって責任など問えなくなってしまうのではないか、という常識的な考え方がある・・・・・・もし常識的見解の言うように、自由意志は因果的必然性が成り立っていないときに成り立つのだとするならば、自由意志というのは、それが生み出す行為と必然的にではなく偶然的にしか結びついていないことになる。ということは、たとえば右手を突き出そうと意志しても、右手が本当に突き出されるかどうかはルーレットによって決まるようなもので、意志から直結するものではないことになる。だとすれば、かえって責任など問えないのではないか。であるなら、むしろ、「私たちの事実」として「自由意志」が成り立ち「責任」を問えるためには、意志あるいはその背景をなす行為の性格や気質と、行為との間は、因果的必然性によってむすびつけられていなければならない・・・・・ヒュームはこういう。

「人間の行為に原因と結果の必然的結合がなければ、正義や道徳的公正と適合するように罰を科するのが不可能である」(本書一七五頁)。

こうしたヒュームの自由論は、自由と必然、あるいは自由と決定論が両立するという考え方なので・・・現代の自由意志論に甚大なる影響を与え続けている。

『人性論 (中公クラシックス』ヒューム著 土岐邦夫/小西嘉四郎訳(中央公論新社)より

 世界は必然なのか偶然なのか。そこに自由意志はあるのかないのか。責任はあるのかないのか、という問題は、哲学的にも歴史の長い問題である。今もなお、完全決着しているわけではない人類のハードプロブレムである。
 

人生はゲームなのだろうか

 私が指摘したいのは、偶然的世界観は、勝者にとっても敗者にとっても都合のよいものになっているという点にある。だから、人生はゲームなのだろうか、という議論も出てきてしまうし、実際に資本主義のシステム構造は、勝利や成功という「目的」に向かって突き進むゲームのようなものだろう。

 世界が予測不可能な偶然的なものであるという考えは、勝者にとっては、「可能性」や「選択」、「成功・失敗」、「達成」といった、極めて人間らしい「目的」の概念を正当化させ、それを蔓延させ続けることだろう。

 勝者にとっては、偶然的な世界の方が、必然的な世界よりも都合がよい。なぜなら、世界が必然的だとすれば、自分の成功は自分の実力というよりは、外部環境によるものになってしまうわけで、勝者にしてみれば、自分の成功や実力を他責にしたくないであろう。

 しかし、勝者による正当化、この考え方の蔓延を許すということは、現実的な「格差」を是とすることであり、勝者にとって都合のよい社会を延命させることにしかならない。

 敗者にとっては、偶然的な世界も必然的な世界も他責にできてしまう。偶然的世界のほうが、運的な要素を理由にできるので、より都合がよい。だが、それらは、自分に原因のない他責だらけの世界ということで、受動的で、隷従という負の感情のループに入り続けたままになってしまうことであろう。これでは、世界を変えるという機運は生まれない。結果、格差社会を消極的にであれ、肯定してしまっていることになる。

 ゆえに格差社会は延命する。格差は埋めることができない、という事態に陥ってしまう。

 これらのことから、私たちは、どうやら、偶然的世界=ゲーム理論(勝者敗者の構造)の世界には、身を委ねてはいけないのではないか、ということがわかる。
 
 上記に挙げたヒュームに先行して、これらの偶然的世界を是としない哲学者がいる。スピノザである。

 スピノザによれば、世界は必然的であり、自由意志などないとさえいう。だが、このことについては、今は立ち入らない。『スプラトゥーン』のような世界構造に身を委ねるのは、ゲームの中に留めておく必要があるという指摘までにとどめておこう。


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