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平和

「イスラエル軍元兵士が語る非戦論」を読んだ。この本について多くは語るまい。ただ一つ思ったことは私たちは平和のために武器を捨てる覚悟をせねばならないという事だ。
これは生半可な覚悟ではない。たとえ相手に殴られたとしても殴り返さない勇気を持てと言うことである。
はたとキリストの言葉が浮かぶ「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」これは究極の非戦論に他ならない。殴られても殴り返さない。
たとえ自分ではなく大切な家族が殴られても殺されてもやりかえさない。
これは本当に勇気と道徳心がためされる。
でもこれをやらなければ人類には永遠に平和は訪れないのだ。
我々はこれを達成しなければならない。すべての武器を放棄せねばならない。例え暴力に脅かされたとしてもそれに対して相手を暴力で脅かさない勇気を持たねばならない。でなければ永遠に私たちは戦争を続けることになる。
より強い武器より優れた兵器が抑止力になるそれは幻想だ。イスラエルは世界でももっとも軍事的に優れた国だった。しかし彼らの国を守ってくれる兵器は存在しなかった。
決して殴り返さないという決意は人間にもっとも強い勇気を与える。
それは自分がどんなにひどい目にあってもそれに屈しない、そして服従しない。そして殴り返さない。勇気である。それはキリスト者としてそしてそれ以上に人間としての至高の精神領域に至らしめる。
この精神を完成させるためにはキリスト教の平和観だけでなく、仏教的諦観つまり私たちのすべてはいずれ失われる。だから自分の何が失われてもそれに対する報復をしないという精神的解脱が必要なのである。

平和主義、非戦論は生易しいものではない。

平和主義非戦論のために友達を失い、家族を失い、裏切り者と罵られ、敵と言われても、それでも平和主義非戦論を主張する勇気が必要なのだ。
私はまずすべてのクリスチャンは非戦論者になるためあらゆる抑止力を否定せねばならないと確信した。何故なら、今、私が平和な生活をしながら幸せを感じる世界の違う場所でミサイルや空爆に脅えている子供がいるのだ。そしてその子供たちを殺害する、それに間違いなく私たちは加担している!
私が今、パレスチナ人の!ウクライナ人の子供を殺している!直接ではないしかし私は加担した。私が殺したも同じだ。
あなたもわたしも今平和な生活をする中で犠牲者を出している。その犠牲者の名前も何も知らない。私たちは残酷な世界で生きている。
この世界を変えるためには自分が変わらねばならない。戦う事を捨てる勇気を持たねばならない。自分の何が失われても復讐しない勇気を持たねばならない!
神様、どうかどうか私に私たちに与えてください。そして他者に対する偏見と憎悪を消し去り、人を許し人を愛せる精神を与えてください。あらゆる困難を克服して生きる力を与えてください。この世界の中で理解されない孤独にあっても生きる糧を与えてください。
主イエスキリストの御名によって。

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