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緊張の正体は恐怖である

緊張して何かが上手くできない。そんな体験をした事があるだろう。
緊張とは恐怖の事である。
何故、恐怖するのか?別に命の危険に晒されてるわけではないのに。
それはそもそも人間が生物として生き残ってきた過程にあると仮説をたてる。
人間が自然とともに暮らしていた時代、私たちは常に危険に脅かされてきた。
殺されたり、襲撃される恐れは常にあった。そんな時代において小さな異変や物音などに敏感に察して逃げる個体が生き残るのに有利だった。
進化の過程において異変などに気がついてストレスを感じやすい個体が残っていった。
私たちが緊張するのは異変を察知する恐怖反応がエラーとして働くからだ。
何か大きな発表をしたり、何か緊張するような時、人は不安になる
『上手くやれなかったらどうしようか?』
それは恐怖反応として脳は判断して危険な状態にあるとセンサーを出す。
危険な状態になるとまずそこから逃げろと脳が発信する、しかし現実としては発表会や会社のプレゼンから逃げる訳にはいかない。
言ってみれば脳が危険だと叫んでいるのにそこに残る判断をしているのだ。
それはとても負荷がかかる。緊張は危険に備えるために身体をこわばらせる。脳は危険に備えてそのリソースを危険が起きた時すぐに逃げる事だけに集中する。
しかし、今私に迫ってるのは事は命の危険ではない。ただ発表会だのプレゼンだのである。死ぬ事はない。
そんな事はわかっていても人間の脳のもっとも原始的な強い反応から人は逃げる事は難しい。それは人間が進化の過程で身につけたもっとも強力なセンサーだからだ。
脳のリソースが危険に備えて多くのエネルギーが割かれているのでいつも何度も練習して普段ならいつも上手くできるようになっている事ができなくなる。
競馬のジョッキーでG1級の実力がありながら何故かG1レースと言う大きなレースは勝てない騎手がいる。
中小規模のレースは何度も経験を得られるために何度も経験するうちにそれは日常になり、緊張しなくなる緊張しなくなると脳のリソースが危険反応をしなくなるのでいつも通り実力が出せて勝てるようになる。
しかし、G1クラスの大レースはそもそもレースの数が少ない慣れるほどレースに出場できないのだ。その騎手がどんなに練習して馬と心を合わせても
心拍数の上昇と脳の危険反応、そして身体の硬直でいつも通りの動きができない。そして負ける。
これが緊張の正体である。

さて、こんな時どうしたら良いのだろうか?

まず対処療法がある。
「Box Breathing」(戦術的呼吸法)と呼ばれる方法だ。これについては検索すれば詳しく掲載されてるサイトがあるのでそちらを参照してほしい。
アメリカ軍をはじめ各国の軍隊で利用されてる方法で緊張度を下げて冷静になる効果がある。
基本的には単純に深呼吸する事で緊張度を下げる方法だ。スポーツ選手が大事な瞬間にいつものルーティンをやるのもこの行為に近い。
いつもの事をする事で脳に今は危険な状況ではないと教えるのだ。
この緊張度を下げる方法に飲酒を選んでしまう人もいる。生まれついて緊張しやすい人が職場で緊張してしまうためにアルコールを摂取して職場に行くようになり
アルコール依存症になる。一般的に言うとアルコールなど飲んだらまともに仕事ができなくなる。だが一定量であれば緊張度の高まりのデメリットよりアルコールの緊張緩和のメリットのが勝るので返って仕事が上手くいってしまう。
その成功体験がさらにアルコールに依存させるようになる。緊張緩和法としてアルコールを選択するべきではない。
ただ、家に帰ってきてリラックスタイムに適量の飲酒であればそれはリラックス効果があるのでおすすめしたい。
もちろん飲み過ぎは良くない。アルコールも薬だ用法容量は個人差があるが適切な容量を守ってほしい。
さて話を戻す。都市生活は特に音や人間関係の複雑さやプレッシャーにさらされる事が多い、そのため日常的に緊張を強いられる場面がある。
それらはパニック障害や様々な精神病を併発させる。不眠なども身体が緊張状況なのが原因だと思う。
私たちはあらゆる方法でリラックスしなければならない。しかしそれだけではダメだ。
結局先ほども言った通り、緊張緩和の対処療法は対処療法であり、その時は緊張度を下げられても緊張そのものを取り除く事はできない。
緊張が日常になって苦しんでいる人にはそれを対処療法だけで改善するのは困難だ。
本質的な考え方を変える事、それが最終的な課題になる。

仏教的な価値観を持つ事。
『諦めることだ』

私たちが緊張するのは絶対に上手くやりたいと言う想いが強ければ強いほど緊張するのだ。絶対に上手くやりたいと言う強い想いは結局その強すぎる想いゆえに緊張状態を高めてしまう。
しかしそこに仏教的諦観をもつことでいろんな事が上手く行くようになる。よく今まで何度やっても上手くいかなくてもうあきらめの気持ちでやったら上手くいったなどと言う話を聞く。
それは仏教的な諦観を持った事で負けていいや、どうせうまくいかないのだ、てきとーにやろうなどと言う一種の抜けた気持ちが返ってリラックス効果をもたらして緊張度を下げて結果うまくいくのである。
野村克也監督が『欲から入って欲から離れる』と言う言葉を残しているがその辺の真理もここにあるのである。
強く願い、強く思えば思うほどそれは遠ざかるものなのである。
私たちは完璧にできていない、それを受け入れる必要があるのだ。緊張してできない自分。
情けない自分。そんな自分を許せる事諦める事が結果として成功への道になる。
特に歳をとると人間の脳の危険センサーは鈍くなってくる。次第に昔ほど緊張しなくなる。経験も増えるので過去の体験からリラックスしてのぞめるようにもなる。
また人間関係も歳を得る事で皆、寛容になり失敗などを責めたりする人も減る。歳をとると結果的に生きやすくなる。
もちろん、自然界ではそれは生命の危険にさらされる事が多くなるのだが現代社会では高齢化するほど人は生きやすくなるのである。
また、高齢化する事で仏教的諦観を持ちやすくなる。若い時は絶対に諦めないと思っていたことについて諦められるようになる。
さらに付け加えると諦めるは本来、明らめると書いて真理を照らして悟りを開く意味である。ネガティヴな言葉ではない。
私たちは成功しなけれなばならないと言う呪縛に囚われてる、しかし成功だけが人生ではない。
本当の成功とは失敗しても恥じない、また恐れない鈍さを持つ事でもある。
恥をかいて生きていこう。恥ずかしい事を思い出して辛くなったら対処療法をすれば良い。

だって私は私なんだから仕方ないでしょ。

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