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vol.67 ドストエフスキー「貧しき人びと」を読んで(木村 浩訳)

この作家が登場して 170年、「ドストエフスキー」とつぶやくと、いまだに熱っぽい議論が伝わってきそう。世界中の創作に影響力を持っていそう。聖書をちゃんと読んでいない僕にも、高尚な作品だと勝手に思い込ませる重さがある。

さて、ドストエフスキーのデビュー作品、「貧しき人びと」

この小説は、その日暮らしの貧乏の上に、世間から侮蔑を受けながらも細々と生活をしている初老の小役人マカールと、病弱で薄幸の少女ワルワーラとの間に交わされた手紙で構成されている。二人のやり取りが、時系列につづられているので、気持ちの変化もつかみやすい。

この手紙の中で、お互いに愛情を表現しながらも、それぞれの生活の孤独や屈辱を訴えていた。そして、卑屈でエゴイステックな心理的葛藤が描写されていた。主な登場人物は、どれも貧しき人びとだった。どこか偏屈で疑わしかった。幸福な気持ちと不幸な気持ちが揺れ動く中で、マカールは成長し、ワルワーラは大地主との結婚を決意して去った。

そんなことが描かれていた。

貧困は、人を卑屈にし、それが続くと精神を破滅させ、施しがないと死に追い込まれることがある。「不幸は伝染病のようなもの(p137)」と、ワルワーラが言うように、悪いことは重なる。一方、八方ふさがりの極貧から、少しの経済的好転で気持ちが明るくなることも想像できる。(職場の重役から思わぬ施しを受けて、明るくなった。p213)また、人の運命は1時間先はわからないということも、十分あり得る。(極貧の住人が、裁判に勝って未来が明るくなったその日に死んだ。p227)

この恐るべき貧困を背景にした物語を読んで、物質的な貧しさと心の貧しさについて考えさせられた。

貧しければ、辛いし、悲しいことも多いだろうし、同情されると、偏屈にもなりそう。死を考えたりするかもしれない。しかし、お金がないことは、不幸なことと言い切れない。幼いころから、心の価値というものを教えられてきた。物質的に裕福でも、ちっとも幸福そうに見えない裸の王様もいる。相手の役に立ちたい。相手に迷惑をかけたくない。悲しませたくない。喜んで欲しい。そんな自分の願いを相手の感情に投げてしまえば、貧しくても心が満たされることがある。

作中には、神様が全てをわかってくれていて、解決してくれると信じれば、不幸は薄らいでいく、というような記述が所々に出てくる。「貧乏は罪ではない(p180)」と、神が立て直してくれることを信じて、恥じることなく生きようと、互いを励まし合う描写がたくさんある。

僕は、そこに、強さともろさと悲しさを感じた。

「貧しい人 神」と検索すると、マタイによる福音書第5章からの引用で「心の貧しい人は幸いである」の一節が出て来た。どういうことだろう。「天の国はその人たちのものである」と続いていた。

日本の価値にどっぷりと浸っている僕には、貧しさを救ってくれるものが神さまだとは、なかなか思えない。『マッチ売りの少女』は、天国に行くことでしか、幸福になれなかった。作中にもあったゴーゴリの『外套』に、貧しくても自分の範囲内で幸福を感じている小役人がいた。

とにかく、貧しさと不幸はイコールではないが、相関関係にある。幸福か不幸かは概念であって、それは自分の意思しだい。確かに思えることは、そう思って過ごせる社会は貴重だということ。

この小説を読んで、そんなことを考えた。話題の「読解力」が上がれば、もっといろんな視点を楽しめるのだろう。

おわり


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