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【天気の子】やっぱセカイ系はこうでなくっちゃ。の現代的アップデート。


ほんの最近の事のようでもあるし、もうずっと昔の事のようでもある。19年の夏映画という事なので、あっという間に公開から一年が経っていたらしい。


当時は公私共に忙しく映画館に行く時間が作れなかったこともあったが
「君の名は。」の大ヒットを受けての次作という事でなんだかヘンな盛り上がり方をしていたことと、案の定否定的な噂や口コミが加熱していて若干興が削がれてしまっていたこと、前作が過去作のいい部分が全て詰め込まれた完璧なエンターテイメント作品として完結した存在だったので、なんだかそれですっきりと満足してしまって自称昔からのファンにも関らず新しいものはもういいかなといった雰囲気になってしまっていた。

結局そうこうしているうちに公開は終了した。


最後の理由はちょっと深刻だ。

好きなバンドが有名になっていくにつれ、過去のマイナだった頃から追っていた自分が否定されたような気持ちになるあれ、かなり近い感情である。

時代と共に客層も変わり、当然ながら曲調も変わっていくのだけど、何故かシングルカットされる曲はどうにも好きになれなかったり好きだと思った曲はアルバムの6曲目とか9曲目くらいに追いやられていたりして、つまりもう僕らのほうを向いていない、という現実に直面したくないあの感じだ。あれはつらい。

変化を嫌い、発展を阻害するそういうダメなファンの人達を忌み嫌っていたはずなのに自分もそんな風に思う年齢になってしまったんだなと思った。

ただ、長く生きて、そういうことを何度も経験するとだんだんと自己防衛本能が身につく。もうつらい思いはしたくないのだ。


女子高生をロボットに乗せて戦わせたり、宇宙の恋人とガラケーでやりとりしたり、夜の新宿で現代社会と悲恋に疲れてやれやれしてた頃の監督はもう居ないのか。流行りのロックバンドと一緒にPVみたいなスタイリッシュ映像の中であんな最高のハッピーエンド迎えていいのか。(最高だったけれども)

僕ら気持ち悪いヲタクの味方だったんじゃないのか。

このまま古参の初期厨の老害になって終わっても良かったのだけど
あのとき滝君が一歩踏み出して親父をぶん殴ったから世界が変わったように
僕も変わらなければと思い、新作二泊三日から一週間レンタルになったタイミングで借りてみた。

フィクションには現実を変える力が有るのだ。



そして、映画は最高だった。

いつも通りの美しく緻密な舞台描写、そして素晴らしい音楽、愛と勇気と大逆転。

にもかかわらず、ストーリィのコアは今時珍しすぎるあまりにも典型的なセカイ系。00年代かと思った。

監督は気持ち悪いオタクのエッセンスをしっかりと残したまま
それを美しいフィルタを通し現代的解釈を施すことで今のメジャーな世界で戦っていた事を知った。

これでまた一人、完全なる信者の出来上がりだ。

オタクは単純なのだ。


ーーーー【以下は見た後の感想です】ーーーー


今更もう語りつくされた感もあるが
完全にあの頃のセカイ系のデジャヴだった。

主人公達の行動がおかしいとかそういう評を見たけどそれは違うと思った。
あれでいいのだ。だってボーイミーツガールしちゃってるから。

回転するセカイに彼女というピンを一度突き立てたら
大事なものを引き寄せて、邪魔するものは振り落として
そこを中心に回り始めるよう引っ掻き回すしかない。

もう何もかも関係ないのだ。
大人だろうが、警察だろうが、この世界がどうなろうが。
観客がどう思おうが。

彼女のいない世界になど何の価値も無いのだ。そういうものなのだ。

だから、なし崩し的にではなく自分の意志で東京の町と引き換えにヒロインを選んだのは本当に良かった。

映画的バランスを取って水没程度、まだギリギリ人が住める街で済んでいるけど本当なら死人がいっぱい出るくらいの罪を天秤にかけて、それでも彼女を選んでほしい。

それこそが、このジャンルのお約束だから。



自分はもう主人公に感情移入できるような年齢ではないのだけど
物語に参加する権利として小栗旬というオトナが用意されていた。

長く生きて、社会との繋がりが深くなって
身動きが取れなくなる寸前の大人。
自由に生きているように見えても、自由ではない。観客に最も近い存在。

主人公が世界を捨てる少し前、警官にタックルした彼は主人公同様
やはり世界を捨てる決心をしたかのように見える。
具体的には娘との未来。
あなただったらそれを捨てられますか。という問いかけ。

であるかのように見せかけて、実はそうではないのではないのかも知れないと思った。

というのも彼はあの時点まで、自分が認識していないだけで
既に死人同然だったということに気づいたからだ。
(刑事と話していて無意識に泣いてしまっていたのは頭と心が解離しているからだ)


家族を失ったときから彼はずっと半分死人だ。
もう一度娘と一緒に暮らして家族を作り直すという希望を頼りに生き返るチャンスを待っていたのだけど、何度目かの面会で

「自分無しでも娘が成長していること」
を認識してしまった。

家庭の中で本来自分が為すべきだった親という役割から引きはがされて
にも関わらず義母という偽物によって充分にその役目が果たされている。
夫として死んだあと、親としての彼も死んだ。
そのことに気づいていない状態で生きている。
それは姪のフォローだったり、仕事という居場所のおかげだったりするのだろうけど。

だから目の前にいる困っている子供を助けてしまったあれは
生前の記憶、父性だ。

激しく回転するボーイミーツガールのセカイの中で
味方の大人がすべきことはただひとつ。
親代わりになって命がけで少年の力になること。

そしてそのの過程で死ぬ。それが本来のお約束だ。

自分の望んでいた未来が既に死んでいることを思い出した彼は
瞬間、もう失うものが何もなくなったので、主人公の新しい未来に
喜んで命をかけた。

自分の未来を捨てたのではなく、もう無かったから行けた。
見かけ上、彼はあそこで完全に死んだ。

これも映画的バランスで逮捕されたくらいで済んでいるけど
本当なら射殺されてほしいし、彼はそれでもいいと思ったはずなのだ。
だってもう死んでいるから。

その後の世界は今風にクリーンだった。

雨がやまない事に人々が順応して無事に生きていたり
あんたのせいじゃないとかこの辺りはもともと海だったとか
そういうのに感じる強い違和は罪と引き換えに女を助けたのに
罰も生贄もなく、なんとなく全てがクリーンに吹き飛ばされているからだなと思った。

運命を変えたら、そこには代償がないといけないと思うのは
僕が00年代の気持ち悪いオタクの末裔だからだろう。

そういうのが見たければまどかマギカでもまた見ればいい。

今の時代には、これが一番いいのだと思う。

この20年間、現実の世界はこんなに辛かったのだから
フィクションの中でまで辛い思いをしなくてもいい。
たまにはこういうのもいい。

ハッピーエンドも悪くない。



フィクションには現実を変える力がある。

そう信じている僕は気持ち悪いオタクのまま
いつのまにか大人になっていた。

時代はすでにクリーンなセカイも柔軟に受け入れているのに。

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