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思い出の場所。僕らの過去が今に繋がる唯一の証明。



雪の夜、終電を逃した友人と朝まで過ごしたマクドナルドは今はもう無い。


デザインが綺麗に統一される以前の古いタイプの店舗で、店内は濃い色使いだった。入り口の直ぐ横にはハンバーグラーやグリマスの絵が描かれたチャイルドシートが置かれている。深夜にも関わらず賑わう店内の喧騒も、漂う油の香りも、顔も、いまでも鮮明に思い出せる。

大きな窓から見える街路樹の先には23時を過ぎて黄色点滅に変わった信号。道を覆いはじめた雪。硬いビニール張りの椅子。冷たいテーブルの上のコーヒー。

十代の僕らが話したことばも、二十代の僕らが交わした言葉も
そこで生まれてそこで消えた。


その一帯は綺麗に再開発されて、現在は窓の無い大きな商業施設が以前よりもずっと沢山の人間を吸い込んでは吐き出している。道も拡げられて格段に歩きやすくなったその街で、かつてマクドナルドだった空間をすり抜けるとき、あのタフで賑やかな、そして少しだけ切ない時代に思いを馳せる。

あの人はいま、どこで何をしているのだろう。





中央通りにトラックが突っ込むほんの少し前。春の秋葉原。


取引先だった、ある電器店のA氏が僕を定食屋に連れていってくれた。
老夫婦が二人で営んでいて、常連であるA氏の事を息子のように可愛がっているのが見て取れた。事実「Aちゃんスペシャル」と称してメニューには載っていない特別な組み合わせのフライ定食を出してくれ、僕もそれを頂いた。

「この店の冷蔵庫や家電は全部俺が売りつけたのさ」

誇らしげに、しかしやや照れが混じる。
壊れたらすぐに飛んでこいよ、近いんだからな。と主人は悪態をつく。
彼らが深い信頼関係で結ばれているのは初対面の僕にも解った

かつて日本一のパソコン屋と謳われたその店の最後の季節に僕が目撃した「アキハバラ」という看板の裏に生き残っていた、情緒。


次の年、その電器店は名前だけを残して事実上消滅した。

店舗の最後の片付けに伺った際、ショーケースにずっと飾られてあった新品のNikon F100を安く譲ってあげても構わないと言われたが断ってしまったことを、未だに後悔している。

改めて地図を見る。知らない店名が増えた。何度探してもその定食屋の名前も、どこにあったのかも思い出せない。

もしもあの時僕がそのニコンを買っていたら、もう一度あの店に連れていってくれたかも知れないし、案外そんなことは無かったのかも知れない。


あの定食屋はいまも、そこに有るのだろうか。

調べる術はもう無い。




以前勤めていた会社がその事業を切り離すこととなった。社名も変わるらしい。
それが発表される少し前、かつての同僚と話をする機会があった。
当時チームだったメンバはこの6年で皆転職したりグループ会社に転籍になったり、同じフロアだった仲間達も散り散りになって久しく、もう連絡を取りあうこともないという。
懐かしい社員の名前を出してみたが、その名を思い出すのに少し時間がかかったあと、結局僕と同じくらいの懐かしさを噛みしていた姿が、それが事実であることを強く裏付けた。


毎朝通っていたビルの名前はいつの間にか変わっていた。

昼休みに良く顔を出していた近所の料理店も廃業していて、いずれそれが存在した確かな証拠は僕の古い財布に入れっぱなしの割引券だけになる。

インクが薄れて消えてしまうまで。




かつて自転車で通っていた高校の前の道を今は毎朝自動車で通りすぎる。もうずっと前に校舎は建て替えられ、そして制服も変わってしまった母校だ。

いま、そこを通ったとして建物を見上げても、歩く生徒達の姿を見ても、懐かしさをおぼえる事はない。自分の記憶の中のあの学校と地続きであると感じることは難しい。

離れていた10年間は、旅立った最後の記憶の裏付けを書き換えてしまうには充分な時間だった。

今日も明日も、僕はその道を通る。この世界は移ろい易くおぼろげだという事実を毎朝突きつけられながら、これからも。



昨日まであった場所も人も目まぐるしく入れ替わっては消えてゆく。
客観的に見ればそれは必然の椅子取りゲームだが、参加者である僕にとっては狂気のデスゲームだ。

あの日々。真夏の日差しと大雨。降り続ける雪。

出会った人たちも、交わしたことばも、伝えた想いも、空間も、景色も、音も、香りも、どんどん曖昧になっていく記憶の中にしか残っていないとしたら、僕がよく見るリアルな夢とどれ程の差が有るというのだろう。


写真の中の若い僕たちは楽しそうに笑う。
フィクションの登場人物たち。

彼らのストーリィがどんなにドラマティックだったとしても、そんなことがあったと覚えている人がここにしかいなければ、それは傷がついたディスクだ。

その顔と、毎朝みる顔の差は、日に日に大きくなってゆく。
傷の数は増えてゆく。

再生不能まであと少し。



もしも、誰かの記憶の中に今もあの頃の僕が生き続けていたとしたら少しだけ嬉しい。それだけが、僕らが過ごしたあの時代が、今の現実と連続性をもっているという事の唯一の証拠になるからだ。

モノが残らないとしたら、独りで振り返った過去は妄想とも想像とも区別がつかない。誰かの記憶に担保してもらわないとだめなのだ。だから、僕も誰かのために忘れないようにしたい。


君はもう忘れてしまったかもしれないけれど
あの雪の夜は、本当に楽しかった。


朝が来なければ良いのにと思いながら
冷めたフライドポテトをつまんでいた。

それを僕は、まだ覚えていた。

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