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KADOKAWA「刊行中止」でこれだけは言いたい「翻訳書をなめんな!」

KADOKAWA『あの子もトランスジェンダーになった』刊行中止の件も、そろそろほとぼりが冷めてきたので、あんまり共感されないかもしれないが、個人的に言いたいことを言っておきたい。

わしはLGBTはよくわからんし、どーでもいい。

老い先短い退職者であり、わけのわからんものに関わりたくない。こっちは細る年金、上がる物価、増える医療負担で破綻寸前、わしの人権が大変なんじゃ。変態の人権問題なぞにかまけておれない。どうせもうすぐ死ぬ老害じゃ。差別主義者と言われようがヘイターと言われようが、レイシストと言われようがミソジニーオブザイヤーと言われようがまったく構わん。


だけど、元出版人として、これだけは言って死にたい。

翻訳書をなめんな!


ということだ。


発行をキャンセルした日本共産党などの運動体にたいし、

「もし本の内容に反対なら、原書と原著者に抗議すべきだ」

という批判があった。

そのとおりである。

翻訳書はダメだが、原書はいい、というのは筋が通らない。原書も簡単に日本で読めるのだから。

本書の内容が許せないというなら、アメリカの原書出版社の前でデモすべきだ。


しかし、わしが本当にひっかかったのは、そこではない。

問題だと思ったのは、今回の一連の騒動に、原書、アメリカの出版物にたいする敬意がまったく感じられなかったことである。

それは、キャンセル運動体だけでなく、その批判者も、そしてKADOKAWAも同じだ。

洋書にたいする畏敬や、翻訳出版にたいする尊敬がない。


昼間たかしさんというルポライターが、原書を読んで、中身は存外まともであるという感想を書いていた。


当人が政治的にはSNSでもシオニスト支持を表明していたりする右派であり、政治的立場に基づいた主観は散見されるものの「ヘイト本」や「トンデモ本」とは感じられない。むしろ取材に基づいて、筆者の主観で記すという原則は守られている。(中略)
本来のノンフィクションとは取材や体験をもとに作者が感じたことを書くものである。とりわけ1960年代にアメリカで生まれた「ニュージャーナリズム」はこの傾向を強調している。現在のアメリカのノンフィクションもその影響を受けて主観や自己主張は強い。そこを知らず記述を「デマ」と受け止めるなら、読み手の力不足でしかない。

"発売中止の「トランスジェンダー本」には何が書かれているのか…原書を読んだ記者が思ったこと"(日刊SPA! 12月9日)


この記事も、なんか間が抜けている。

中身がまともなのは、当たり前である。

あのねえ、アメリカの出版界は、

出版のメジャーリーグ


なんだよ。

さらに、そのなかで、海外で翻訳出版される本というのは、エリート中のエリートなんだよ。

メジャーリーグのなかのスター、いわば大谷翔平だ。


KADOKAWA本のキャンセルは、大谷翔平をキャンセルしたようなものだ!


と言いたいわけよ。

共産党は大谷翔平に謝れ!


欧米の出版界、わけても世界中を相手にしている世界最大のアメリカ出版界をなめんな、と言いたい。

国内だけを相手にしてる日本の出版界とは、残念ながらクオリティがちがう。あっちが断然上だ。

わしは現役時代、和書と洋書を同じくらい読んでいた。翻訳出版も仕事のうちだったから。だから、よーく知っている。


一例をあげるなら、あちらのノンフィクション作品には、巻末索引が当たり前についている。日本では、学術書以外は、索引があるのが珍しい(翻訳でも省かれることがある)。「扉」の付け方なんかも、日本の新刊でいい加減なものがあるが、あちらはすごく厳格だ。

原書と邦訳書をくらべれば、一般に翻訳書のほうが厚くなる。これは日本語の冗長性によるもので、英語のほうがページ当たりの情報量が多い。

あちらの方がゲラ段階で時間をかけるし、一流編集者の社会的地位も高い。それだけ出版文化の約束事や伝統の維持に厳しい。

もちろん、欧米の出版物でもピンキリがあるが、一般に欧米の出版界は、日本をふくめた世界の出版の鑑(かがみ)である。世界の出版社売り上げ上位は欧米の出版社であり、欧米の出版売り上げは紙においても日本のように落ち込んでおらず堅調だ。


というか、むかしの出版人や知識人には、そういうのは前提だった。

みんな、洋書や翻訳書で、教養を身に着けたのだ。文学はべつにして、日本人の書く本は、基本的に洋書の解説書、代替物だったと言っていい。

出版人も、洋書から「本」の基本を学んだのだ。グーテンベルク聖書とか、ウィリアム・モリスとか、みんな手本にした。

むかしは、日本橋の丸善で、みんなバカ高い洋書を買っていた。

その時代の「洋書のありがたみ」や、翻訳書の「地位の高さ」が、出版界のなかですら忘れられたのか。

それは危険な兆候だ。

日本語で書き下ろされた本は、基本、日本人しか読まない。だから、ひとりよがり、夜郎自大、独善、井の中の蛙が平気で流通する。

世界から置いてきぼりにされたくなかったら、洋書と翻訳書を読め!

それは、われわれにとって、文化の基本だろう。

(日本には独自の出版文化の長い歴史があった。しかし残念ながら活版印刷は発明できなかった。日本人は儒教文化の影響で読書好きで、十分に大きな出版市場を持つが、欧米の出版文化の蓄積にはかなわない)


翻訳書がキャンセルされたことによって、アメリカの出版文化と、原著者の人権も侮辱されている。

キャンセルは、一国の憲法よりもはるかに大きなものを侮辱している。

その最大のものを、ひとことで言えば、ヒューマニズム、人文主義だ。

キリスト教会が決めた画一的な価値観から解放され、多様な人間の興味深い意見を世にあふれさせようとした人類の文化運動だ。

出版は、近代という時代とともに、その運動を担ってきた。

その運動こそ、自由や、多様性が大事、という考えのみなもとだ。

それを、多様性がどうこういう人たちが裏切ってどうする。


出版人の哲学は、よき意味の相対主義であり、世の中が画一的になることに抵抗する。異論、反論を普及させるのが使命だ。

それは世界の出版人が共通に意識すべき使命だ。

その出版の使命、哲学が否定されたことに、いちばんアタマに来るのだ。

その「大きな価値」から批判する人が少ないことにも腹が立つ。



でも、それと同時に、これも言わなければならない。


洋書を、ありがたがりすぎるな!


もちろん、洋書にもトンデモ本はある。

日本に関しても、ときにトンデモ本が出る。すべてをありがたがる必要はない。

欧米の出版文化のクオリティを尊敬することと、「欧米崇拝」とはべつだ。欧米人の価値観に同意する必要はない。(しかし、それを知る必要はある)


でも、「ありがたがりすぎる」弊害は、もっとほかのところにある。


「洋書崇拝」「出版崇拝」が行き過ぎると、


出版はビジネスでもある!


ということが忘れられがちになる。


今回のKADOKAWAの『あの子もトランスジェンダーになった』についても、タイトルやコピーが「売らんかな」でよくない、という意見があった。

そもそもKADOKAWAが、「おわびと説明」で「タイトルやキャッチコピーの内容により結果的に当事者の方を傷つけることとなり」と言ってしまった。

しかし、キャンセル側は、本書の内容や著者の思想を問題としており、「タイトルを変えたら出していい」とは言っていないのだから、これは責任を現場に押し付ける、卑怯な言い訳であることは、以前にも指摘した。

だが、キャンセルカルチャーを批判する側、出版中止に抗議する側にも、それに同意する声が聞かれた。

そういうことを言うのは、学者が多い。

たとえば、堀茂樹・慶大名誉教授は、以下のようにXでポストした。


優れた内容の当該本の〝唯一の〟非は、訳題がセンセーショナルだった事。これは、「売らんかな」の姿勢でキャッチコピーのようなタイトルを蔓延らせてきた日本の出版界の堕落が招いた事態です。原著タイトル通りの『不可逆のダメージ』『取り返しのつかない損傷』等の訳題に替えて発売決行すべきです。


タイトルやキャッチコピーは、売れない場合に損害をこうむる出版社の専権事項であり、表現の自由であるとともに、編集の権利である。

翻訳で原著のタイトルを変えるのはよくあることで、現地で「売る」ためのローカライズであることは国際的に理解されている。

原著どおり『不可逆のダメージ』で日本で売れると思う編集者は、編集者失格だろう。原著者に説明は必要かもしれないが、タイトル変更で原著者からクレームが来たという話は聞いたことがない。

ノンフィクションだけでなく、フィクションでもそうだ。たとえば、最近私がレビューを書いた、Netflix話題の新作映画「Leave the World Behind」。原作は同題のアメリカの小説だが、早川から出た訳書の邦題は『終わらない週末』と原題とは大きくちがっており、映画の邦題もそれに倣っている。

だから、原題どおりに訳せというのがそもそも不当な言いがかりだが、この名誉教授の場合、邦題に勝手に「出版界の堕落」を読み込んで、キャンセルカルチャー側の論理を肯定している。キャンセルカルチャーを批判しているはずなのに、みずからキャンセルする側に回っているのに気づいていない。

こういう、おためごかしの学者の無知・錯誤・傲慢も困ったものだと思う。


学者は、洋書や翻訳書の「文化的」価値はよく知っている。

知っているだけに、それが「金儲け」のために出されていることは忘れがちだ。

むかしは、翻訳はもっぱら学者の仕事だった。

そしてそれは、たいがいアルバイトだった。学者は大学から給料をもらっている。基本書を翻訳すると、定期的印税収入でうるおったが、もともとは翻訳で食っていたわけではない。

有名学者は翻訳を、しばしば弟子や学生に任せていた。だから、むかしの翻訳書の訳文はひどいものであった。

翻訳書の書評は、かならず訳文にケチをつけるのがお約束だったほどだ。

しかし、いまは、いい加減な訳文は少なくなった。

プロの翻訳家が訳すようになったからだ。

そういう変化を知らず、学者はむかしの感覚で翻訳書を考える。「儲からなくてもいい、文化的使命」みたいに。いまの翻訳ビジネスの実際を知らない。

現在の翻訳者はプロだから、それで生活している。翻訳書は一般に部数が少なく、翻訳印税率は一般に低い。訳書が売れなければ、数をこなすことで収入を保つか、廃業しなければならなくなる。そしていまは、本一般が売れないので、翻訳書も売れない。翻訳だけで金持ちになった人を私は知らない。

翻訳は、ハリー・ポッターとか、サピエンス全史とか、ときに大ヒットが出てかろうじて一息つけるが、だいたいはギリギリでやっている業界だ。

原著者、原著出版社、現地エージェント、日本エージェント、日本の出版社、と関係者が多く、下読み、契約、翻訳、原著者への問い合わせなど、一冊の翻訳書が出るまでには、長い時間と、多大の労力、そしてコストがかかる。

原書が発行されたアメリカでは、再販制がないなど仕組みのちがいもあり、出版まで長い時間をかけて大手書店チェーンやブッククラブなどに営業をかける。

それが日本で翻訳出版される場合、営業にはそんな時間がかけられず、日本人にとって認知の低い著者やテーマを認知させる「短期」「一発勝負」になる。「どぎつく」なり、「売らんかな」になる理由があるのだ。

それにくわえて、訳文の質を保ち、翻訳ビジネスを「持続可能」にするために、一冊一冊の翻訳書を最大限売れるよう、あらゆることをするのは当然である。


今回のキャンセルは、KADOKAWAの決定だから、ムダ働きになった翻訳者たちにも、金銭的補償がなされただろう。

しかし、こうしたことは、翻訳者やエージェントの生活を直接におびやかす。本来なら、日本翻訳家協会や翻訳エージェントが、筋の通らない出版中止に抗議声明を出しておかしくなかった。

残念ながら、翻訳者や翻訳ビジネスは、出版界の中で声が小さい分野で、今回も沈黙しているようだ。

今回のような機会に、翻訳業界の存在感を示すことも必要だと思う。


ついでに、上記の問題にくらべればマイナーだが、出版前に本書のゲラ(校正刷り)が保守系文化人に送られていた点に触れたい。


実は、二週間程前に、KADOKAWAの担当者から手紙と本の原稿を頂きました。出版にあたり凄まじい弾圧と妨害が予想されるから、共感頂きましたら、サポートしてほしいと まだ3分の1しか読んでないが、これは間違いなくベストセラーになれた本だ。完読後、一番大事な主張を皆様に紹介する。検閲に負けぬ


kadokawa、炎上を見越してあえて出そうとしたんだな。しかも先手を打ったつもりでそっち系のひとたちに助けを求めてた。それで助けを求められたひとたちが嬉々としてそれバラしちゃって(大物感を自慢したかったんだろうか(笑))、さらに炎上したらすぐに出版取りやめにしたり… なんかもういろいろ


出版以前に校了前のゲラを送ることは、むかしの日本の出版界ではあまりおこなわれなかった。

だから、異例に感じている人もいるかもしれない。


しかし現在、本の内容に賛同してもらえそうな人に、事前にゲラを送ることは、ふつうに行われている。

アメリカではむかしから当たり前だ。原著出版のはるか前から、校正前のゲラを関係者に見せて、そのフィードバックで原稿の質を上げていく(この段階のゲラがエージェントを通じて海外の編集者にわたることもある)。未校正ゲラは、PR用にも使われ、だから初版時からたくさんの賛辞や推薦文がカバーに刷られている。

このやり方は、日本でもしばらく前から一般化した。いわゆる識者だけでなく、私が業界をやめるころは、発信力のある書店員に読ませるのも流行っていた。

編集者にとっては手間なのだが(ゲラを早めに用意しなければならない)、営業・宣伝やPR部門からも要請される。


映画公開前に、映画評論家や有名人、最近は映画系YouTuberなどインフルエンサーを試写会に招待したり、試写会に来られない人には映像データを送ったりするのと同じである。

この場合、もちろん興味ない人は断れる。また、見た人も、特定の感想を強いられるわけではない。誘われる以上は、褒めてほしいのだろうな、と思うだろうが、べつにそれが強制されるわけではない。酷評される可能性も覚悟のうえである。

そんなことをしなくても、ある程度売れる本や、話題になる映画なら、わざわざそんなことはしない。

しかし、かりに酷評されても、話題にされ、認知が広がったほうが、売り上げにつながると思える商品はある。ほとんどの翻訳書は、著者やテーマが日本人になじみがないので、そのような例になる。

つまりは、献本を少し早めにして、早めに「書評」を引き出して、PRに役立てるのが目的だ。

「ステマ」などの不正に当たるのは、カネによって「賛辞」を買う場合であろう。

推薦文には一般に原稿料を払うが、人の意見を買うほどの予算はふつうない。それは買収とも「ステマ」ともべつである。そのあたりの混同も見られた。

(しかし、出版で「ステマ」がおこなわれていないわけではなく、たとえばカネ=PR費=を払ってテレビで本を紹介させる、というようなことはある。それは今回とはべつの問題だ)


とにかく、「売らんかな」はよくない、などというのは、現在の出版業界の厳しさを知らない、わけても翻訳ビジネスの厳しさを知らない、浮世離れした意見だと感じる。

もちろん、そんな業界の事情など知らん、と言う権利は、業界外の人にはあるだろう。

しかし、今回の「出版中止」騒動では、ジャーナリストとか、学者とか、出版界周辺の人にも認識のギャップを感じることが多かった。



あと、桐野夏生が「大衆的検閲」とか語っているらしいが、これまで同和の言論弾圧とか、百田尚樹パージとか、左翼側の「検閲」には甘々だったくせに、何をいまさら、と、これもむかつく。

右だろうが、左だろうが、自分の価値観と合おうが合うまいが、これまであらゆる検閲やキャンセルに抗議していなければ、説得力ないね。



<参考>


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