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タイ観光が生む愛国心 「クンユアム」の日本兵墓地をめぐって

タイの北の日本兵墓地


YouTubeの「TJ(ティージェー)チャンネル」は、タイの観光情報では人気ナンバー1ですね。わたしもよく見ます。

タイと日本ハーフのTJさんを中心に、若いスタッフのチームワークが、見ていて気持ちがいい。

そして、ときに啓蒙的な番組があるのもいい。


2カ月ほど前の公開ですが、タイ北部「クンユアム」の日本兵墓地をピギーさんが紹介する番組は、とくに心に残りました。


タイ北部に日本人が眠る街があった!大東亜戦争史上最悪の作戦「インパール作戦」がタイに残したもの。。【メーホンソン・クンユアム】(TJ Channel Thailand 2023年11月23日)


動画のなかで、ピギーさんはこう解説しています。


「このクンユアムは、日本人とのかかわりが、おそらくタイでいちばん深い場所だと思います」

「このクンユアムがどういうところかというと、戦争中にインパール作戦があって、日本兵がここから出発してビルマ、いまのミャンマーを越えてインパールに向かった。その作戦は失敗したんですけども、日本軍がインパール、ビルマから引き揚げてきたとき、この地にたどりついた。そんな場所です。インパールから戻ってきて、この地の人たちに助けられた」(動画4:00あたり)


首都バンコクから遠く離れた北の果て。

北部の中心都市チェンマイから車で行くしかないでしょう。欧米人に人気の保養地パーイからもかなりの距離があります。

そんな地に、日本兵の遺品や墓が大事に保存・保管されているとは。うれしいではないですか。


クンユアム(TJ Channel Thailand 2023年11月23日)
クンユアム(TJ Channel Thailand 2023年11月23日)
クンユアム(TJ Channel Thailand 2023年11月23日)
クンユアム(TJ Channel Thailand 2023年11月23日)
クンユアム(TJ Channel Thailand 2023年11月23日)
クンユアム(TJ Channel Thailand 2023年11月23日)
クンユアム(TJ Channel Thailand 2023年11月23日)


図1 タイ・クンユアムとインド・インパールの位置関係(google mapを使用)


インパール作戦とクンユアム


わたしはこの動画で、クンユアムという場所を初めて知りました。

たまたま、インパール作戦について、調べているところでもありました。

(インパール作戦とは、1944年4月に日本軍が英領インドのインパールを陥落させようとした作戦。作戦と指令のまずさから、多くの日本兵を飢餓で死なせた悲惨な戦闘となった)

そこで、「クンユアム」について、いろいろ調べてみたわけです。


ネットで検索すると、この地をインパール作戦との関連で紹介している情報が、ほかにもありました。


ここに日本兵が来たのは1942年のことで、やがて軍用道路の建設が始まりました。クンユアムからミャンマー国境までは、わずかに15kmの道程です。ミャンマーへの入り口にあたるクンユアムに、先の軍用道路がつながっています。皮肉なことにインパール作戦に失敗すると、今度はここはミャンマーから敗走する日本兵の脱出口になりました。やっとこの地までたどり着いたけれど、命を落とした兵士がたくさんいました。
(ピースあいち メールマガジン)


ただ、このクンユアムからインパールに出発して、またインパールからここに戻ってきた、という話には、「あれ?」と思う人も多いでしょう。

インパール作戦は、現在も議論されることが多い有名な戦闘です。クンユアムがそんな場所であれば、当然言及されるはずですが、あまり聞いたことありません。

上の地図でわかるように、ずいぶん遠いですしね。


わたしは戦史にくわしくないので、よくわからないのですが、調べた範囲では、以下のような事情だと思います。


ビルマ戦出発点(進軍ルート)としてのクンユアム


タイ政府観光庁のクンユアム「タイ日友好記念館」の案内には、以下のようにあります。


当時の日本軍は、クンユアムをビルマ戦線へ向けた重要拠点とし、食糧調達、道路開拓などに従事していました。約6,000人とも言われる日本軍の到来は、クンユアムの人々からは歓迎され、駐留時には一体となって道路の整備に取り組んだり、それに伴い町の経済も活性化しました。


「第 2 次世界大戦中の日本軍のタイ国内での展開」(柿崎一郎)によれば、1943年時点で、タイ国内に日本軍は40000人ほどいました。

日本軍が集中しているのは3カ所で、ホーソーンに約10000人、バンコクに約7000人、チェンマイに約7000人です。ホーソーンというのは、バンコクの東で、タイとビルマを結ぶ「泰緬(たいめん)鉄道」(映画「戦場にかける橋」でおなじみ)の建設現場です。

上のクンユアム説明文での「約6000人」の日本軍というのは、だから北の中心都市「チェンマイ」の駐留兵として数えられていた日本兵だと思います。


ここで彼らが何をしようとしていたかというと、ビルマ(ミャンマー)のタウングーとチェンマイを結ぶ軍用道路「チェンマイ‐タウングー間道路」の建造でした。

クンユアムは、チェンマイとタウングーの中間にあたる国境の街でしたから、兵站基地となり、多くの日本兵がここで道路工事にあたっていたのでしょう。

図2 クンユアムとチェンマイ、タウングーとの位置関係


この「チェンマイ‐タウングー間道路」は、タイからビルマに日本の軍隊を送り込むルートとして、泰緬鉄道を補強する位置づけだったようです。

だからクンユアムは、インパール作戦ふくむビルマ方面での戦争で、日本軍の出発点の一つだったことはたしかでしょう。

ただ、インパール作戦のときも、主なルートは、泰緬鉄道など、もっと南だったと思います。

(海上輸送がまだ使えた時期は、ビルマ南のラングーン(現ヤンゴン)から上陸し、マンダレーをとおってビルマ北部へ向かったでしょう。)


ビルマ戦帰着点(撤退ルート)としてのクンユアム



次に、インパール作戦に敗れ、日本兵が戻ってきた場所がクンユアムであったかどうか。

たしかに、ビルマから撤退してクンユアムに到着した兵士も多かったと思います。

ただ、そこでことさらインパール作戦と関連づけることに、疑問がないでもありません。


タイ日友好記念館を紹介する動画のなかで、以下のような掲示物が見えます。

最期の日本軍 ビルマから撤退した第56部隊約11000人がトーンウーチェンマイ道を通過してクンユアム郡に駐留した。松山祐三陸軍中尉の主な任務はチェンマイを防護するためのトーンウーチェンマイ道の占有であった。クンユアムに駐留するもうひとつの目的は軍基地を建て、再度ビルマのトーンウーを侵略するためであった。


この第56師団(師団長・松山祐三中将)は、戦史によく登場します。

この師団は、インパール作戦ではなく、中国・雲南省での「拉孟・騰越(らもう・とうえつ)の戦い」にくわわっています。

インドのインパール作戦と相次ぎ、その近辺のビルマで「フーコン作戦」、中国で「拉孟・騰越の戦い」が戦われていました。

図3 ビルマ、タイの戦場


同じ「第15軍」に属しますが、インパール作戦を担ったのは第15師団、第31師団、第33師団です。

主に九州出身者から成る第56師団の支団は、中国雲南省の「拉孟・騰越の戦い」に向かいました。

1944年4月ビルマの戦いの状況(wikipedia「拉孟・騰越の戦い」より)


「インパール作戦」での敗北につづき、「フーコン作戦」「拉孟・騰越の戦い」のいずれも日本軍は悲惨な敗北を喫します。

インパール作戦は、日本軍の悲惨な敗北例として有名です。「無駄死に」と思われる損害が大きかったからですが、「拉孟・騰越の戦い」や「フーコン作戦」も激戦でした。

「拉孟・騰越の戦い」で撤退できなかった部隊は、中国で唯一の日本軍「玉砕」例になりました。

「フーコン作戦」の拠点、ミッチイナの第114連隊も、事実上「玉砕」を命じられましたが、指揮官の水上源蔵少将は、部下に独断で転進命令を出して逃がし、自分だけ自決しました(丸山豊『月白の道』)。


いずれにせよ、ここで言いたいのは、クンユアムと関連づけられるとすれば、インパール作戦よりも、「拉孟・騰越の戦い」のほうではないか、ということです。「拉孟・騰越の戦い」から撤退してきた軍がここに駐留したのではないか。

わたしはそう思うのですが、それを裏付けてくれるような情報には、いまのところ出会っていません。


なお、芥川賞作家の火野葦平は、インパール作戦に従軍したあと、雲南でも従軍し、第56師団の松山祐三中将に会って、その印象を1944年8月8日の取材メモに残しています。この人がクンユアムのトップでした(松山祐三は1946年6月に復員し、その直後の1947年1月に死去した)。

師団長松山祐三中将。挨拶したときはいかめしかったが、話をしていると童顔で笑い、はげしさのなかに風雅なところの見える人。九州の兵隊はつよい。よく頑張っている。大丈夫だから安心してくれ(などと松山中将は言った)
(火野葦平『インパール作戦従軍紀』集英社、2017、p375)


タイと日本のしたたかな関係



それにしても、上の掲示物によれば、日本軍はビルマから撤退したあと、このクンユアムでも、再侵攻のための準備をしていたらしい。

その日本軍兵士と、クンユアム現地のタイ人たちは、親しく交流していたらしい。

そのあたりの事実が、味わい深いと思うんですね。


日本軍が侵攻したアジアで、日本兵と現地人との関係は、いつも良好だったわけではありません。友好国とされたタイでも同じです。

1942年12月18日、泰緬鉄道の起点に当たる町「バーンボーン」で起こったバーンボーン事件が有名です。

この地の寺院のなかに日本軍キャンプがあり、シンガポールから送られきた捕虜がいた。

寺院の僧侶が捕虜にタバコを恵んであげたら、それを見た日本兵が怒って僧侶を殴った。

それを目撃したタイ人たちが騒ぎ出します。

タイで僧侶を殴ったのですから、ただではすみません。タイ人VS日本人、最後は現地タイ警察をまきこんだ銃撃戦となり、日本兵7人が死にました(タイ側の犠牲はよくわかりません)。


タイは、「シャム」の時代から、日本の友好国とされますが、いっぽうで、両国の関係は、キツネとタヌキの化かし合いのようなところがあると思います。

第二次大戦中も、「タイは日本の同盟国のようにふるまっているが、ホンネはわからん」と警戒する向きが日本にありました。

上述のとおりインパール作戦に従軍した火野葦平は、1944年7月、第33師団の田中信男中将・師団長がタイをこき下ろすところを取材メモに残しています。


タイ国はみんな買いかぶっているが、程度の低い劣等国だ・・ピブン(首相)は親日を表面の看板にしているが、日和見。政党もうるさく、いつも内訌していて政変の気配が絶えたことがない。軍隊も一度も負けたことがない、日本より強いなどとたわけたうぬぼれをもっている。・・
(火野葦平『インパール作戦従軍紀』集英社、2017 p267)


実際、タイは枢軸国側として日本に協力しながら、最終的には連合国側として終戦をむかえ、まんまと戦勝国になりました。

さすが、アジアで、植民地にならず独立を守った2国。タイと日本は、どちらもしたたかだと思うのです。


それはともかく、大東亜戦争の理念は、アジア人が人種・民族を超えて連帯し、白人支配を跳ね返すことでした。

インパール作戦で、そもそも日本軍が何をしたかったかというと、チャンドラ・ボースと日本軍が手をたずさえて英領インドに凱旋し、アジア人が白人支配を跳ね返した象徴としたかったわけですね。

しかし、その日本人の勝手な理念が、アジア人全般にシェアされていたわけではありません。

結局は、その場所場所で、人間対人間の付き合いがあり、それが日本軍の居心地と、現地アジア人の日本イメージを決めていたのでしょう。

現地の人を日本軍に協力的にさせる活動を「宣撫工作」と言います。「アンパンマン」のやなせたかしは、中国戦線でこの宣撫工作に従事していました。


クンユアムで取材した、上の「ピースあいち」の記者は、「(道路)建設にはたくさんの住民の命を奪った」「国家権力とその意志の凄さを知った」と、日本軍の残虐さを強調しています。

いっぽう、タイ観光庁のウェブ案内文では、「(日本軍は)クンユアムの人々からは歓迎され、駐留時には一体となって道路の整備に取り組んだり、それに伴い町の経済も活性化しました」とあります。

すべてうまくいったわけではないにしろ、もし日本軍が憎まれているなら、こんな墓地や記念碑が残ることもないでしょう。このクンユアムは、人間関係が比較的よかった例なのだと思います。


愛国心の意外なチャンス


このクンユアムが面白いのは、日本軍の戦跡を、現地が観光資源化していることですね。

これは、以前に触れたフィリピン・ミンダナオ島の「ジャパニーズ・トンネル」に似た例かもしれません。


こういう史跡は、日本の観光ガイドに載っていないことが多く、日本人が知らないことが多いわけです。

日本人が海外観光に行ったら、たまたまそういう史跡に触れて、日本国内で教えられていない日本の歴史に触れる、ということがある。

とくに、大東亜戦争については、戦後日本で、いわゆる自虐史観的な教えられ方しかないので、海外のそういう機会が、貴重な学習機会になる可能性があるのですね。


この「TJチャンネル」のピギーさんの動画は、右とか左とかのイデオロギーではなく、偶然に日本軍の史跡にふれて、純粋に感動しているのが伝わってきます。

そこがすばらしいと思うんですね。

戦争の肯定とか否定とかではなく、戦前・戦中の日本人が何をしていたか、いいことも悪いことも、事実を知ることで、日本人としての歴史の連続性が実感できる。それが愛国心の基礎になると思うのです。


日本国内で、日本人の愛国心が育まれることはありません。左翼と左派メディアが妨害するからね。

戦争ドキュメンタリーなども、戦後の「反戦平和」イデオロギーでゆがんでいます。日本軍が侵攻先で「歓迎された」みたいな話はなかなか紹介されません。どうせ偏向して紹介されるから、多くの「戦争協力者」が戦後は口をとざしました。

逆に、この動画に見られるように、海外で、愛国心が育まれることがある。というのは皮肉ですが、それでも、いいことだと思うんです。



<参考>


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