見出し画像

フィリピンの人気レストラン「タダクマ(只隈)」と日本移民史

外国人居住者が増え、日本も「移民国家」になる、大丈夫か、と心配する人が多いわけですが。

でも、かつて日本人も、移民として北米、南米、南洋地域にたくさん出かけていった。

日本人もかつてそれらの国・地域で「移民」だった、ということが忘れられがちだと思うんです。


1919年、第一次世界大戦後のパリ講和条約で、日本全権団は「人種的差別撤廃提案」を成立させようとした。

「国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である」とwikipediaにも誇らしげに書いてある。

でも、それは、北米に移民した日本人が差別されていたからですね。

右翼も、日本人が最初に人種差別撤廃を主張したことを誇るならば、いま日本に来ている移民を差別してはいかんと思う。


人気レストラン「只隈」の謎


なんて、エラソーに説教臭いことを言いたいわけではない。

私も日本移民史に詳しいわけではまったくない。

私が移民の歴史にちょっと興味を覚えたのは、フィリピンの日本食レストラン「Tadakuma(只隈)」のことを知ったからです。

このタダクマというレストランチェーン、主力のラーメンのほか、スシ、テンプラ、カツカレー、スキヤキ、トーフ、サシミなど日本食全般を提供し、フィリピン人に愛されているようなのです。



tadakuma davaoのfacebookより


TadakumaのFacebookより


TadakumaのFacebookより 日本語があやしいのはご愛敬


Tadakumaのfacebookより 日本語はあやしいけど、フィリピン人は英語は日本人よりうまいですから


ダバオ市の「Tadakuma」を紹介しているフィリピンのYouTube動画


ダバオは、マニラ、セブに次ぐ、フィリピン第3の都市。フィリピン南部の中心地ですCEBU21 https://www.cebu21.jp/philippines/davao-area/ より


タダクマは、フィリピンのミンダナオ島で、ダバオ市を中心に、周辺のタグミ、マリタ、カガヤン・デ・オロ、イリガンなどでチェーン展開をしています。

私が「Tadakuma」のことを知ったのはまったく偶然なのですが、なぜ「タダクマ」という名前なんだろう、と疑問に感じて、ちょっとググったわけです。

そしたら、戦前の日本のフィリピン移民の歴史が垣間見えた、というわけです。


「日本人租界地」と言われたダバオ


ダバオはいま、フィリピン第3の都市ですが、戦前においては、フィリピンのみならず、南洋における日本人移民の一大拠点でした。

丹野勲・神奈川大学教授の「戦前日本企業のフィリピン進出とダバオへのマニラ麻事業進出の歴史と戦略」(国際経営論集 No.50 2015)によれば――(以下、太字は引用)


1939(昭和14)年でのフィリピン在住日本人の数は、2万9千人ほどである。そのうち、ダバオでの日本人は1万8千人と最も多く、次いでマニラの4 千700人、以下マウンテン州の1千100人、セブーの650人の順であった。

ダバオは、戦前における南方地域において日本人入植者の一大拠点であったことである。1935(昭和10)年10月1日当時における、在留ダバオ日本人の数は13,984人で、同期における南洋各地における在留日本人総数は36,134人であることから、南洋在留日本人の約39%はダバオに在留していたことになる。フィリピンのダバオは、南方・南洋の日本人移民の中で、最も人口の多い地域であった。

ミンダナオ島のダバオは、日本人租界地、植民地の観があるとも言われるようになった。

(丹野上掲論文より)


このダバオの日本人入植地のリーダーの一人に、只隈(ただくま)與三郎という人物がいたわけです。

只隈與三郎は、当地で設立されたバト拓殖株式会社の社長でした。



バト拓殖株式会社は、1918(大正7)年、ベンゲット移民より身を起し、社長となった只隈與三郎等により設立された。只隈與三郎は、バヤバス拓殖の吉田円藏とともにダバオ日本人草分期の移民で、ダバオ日本人社会のリーダーの一人である。事業地は、ダバオより南西約23キロの高台にある。
 バト拓殖は、1937(昭和12)年当時、資本金2万比、実際投資額30万比で、耕地面積は927町歩、麻80万株および椰子若干を植付け、麻年産は1万5千ピクルであった。同社の特徴は、直営耕地の割合が高いことである。日本人自営者55名で、その他にフィリピン人労働者200名を雇用した。麻の外に、椰子栽培あるいは牧畜業と多角的農業を行った。只隈與三郎社長は、バヤバス拓殖社長吉田円藏と並び称されるダバオでの日本人開拓者である。(丹野上掲論文)

只隈與三郎(http://ryubun21.net/index.php?itemid=9948)


ほぼ100年前のダバオ入植者・只隈與三郎と、現在ダバオで人気の日本食レストラン「Tadakuma」とは、関係があるに違いない、と思ったわけですね。


日系フィリピン人の「ラーメン亭」がルーツ


で、タダクマというレストランについて調べ始めたのですが。

「タダクマ」の創立者、マニエル・ナカムラ・ホアキン(Manuel Nakamura Joaquin)氏は、日本人の両親のもと横浜に生まれ、13歳のときにダバオに来た。

来たときは英語もフィリピン語(タガログ語)もまったくできなかったという。アテネオ大学ダバオ校で学び、現在はフィリピンに帰化している。

タダクマの始まりは、ホアキン氏がマニラに開店した「Ramen Tei」だったらしい。

「Ramen Tei(ラーメン亭)」という名の店は国内外によくあるから、どの「ラーメン亭」かはよくわからんのだけど。

そのマニラの「ラーメン亭」を売却して、ダバオで「タダクマ」を始めた。


以下に、ダバオ市のタダクマ店内で、地元メディアがホアキン氏にインタビューした英文記事があります。


Traditionally Tadakuma(Mom-About-Town 2017)


この記事の中で、ホアキン氏は「タダクマ」の哲学を語っています。

タダクマは、「日本食そのまま Traditionally Japanese」がモットーです。

「私たちは、現地の味と融合させることはしません。でも、お客の嗜好には柔軟に対応します」

フランチャイジーは、タダクマの「秘伝のたれ」と手作り麺を必ず受け継ぐが、それ以外の材料は、タダクマの基準を満たすなら、自由なアレンジが許される。

おいしさの秘密は、素材の新鮮さだと言います。

「私たちは、客から注文があって、初めて作り始めます。作り置きはしません。だから、お客には、仲間全員がそろってから注文するよう勧めます。ラーメンは、できて5分以内に食べてもらわねばなりません」

濃厚なトーキョーの味に負けないラーメンを作るため、スープは1日かけた低温加熱でつくり、毎日作り直す。野菜は高圧調理でカリカリ感を出す、など。


Tadakumaの創立者、Manuel Nakamura Joaquin氏(写真左) 上掲Mom-About-Town記事より


この2017年のインタビュー当時、ホアキン氏は70歳で、まもなく娘に店を譲って引退すると言っています。

しかし、ホアキン氏についてネットで知りうるのは、その程度でした。

私が知りたい肝心のこと、なぜダバオに来て、なぜ「Tadakuma」という名前をつけたのか、只隈與三郎の子孫と関係があるのか、は、わかりませんでした。


さらにいろいろググっていると、このホアキン氏ではなく、別に起業家のMaureen Michael Tadakumaという人物が、タダクマ開店にかかわっているらしいのがわかりました。

Facebookのプロフィールによると、この人物はフィリピン人で、現在フィリピンの「RYU Data Centre」というIT企業のCEOであり、過去に「Ramen Tei  の Operations Manager」だった、とあります。

では、このTadakuma氏にちなみ、レストランは「Tadakuma」と命名されたのでしょうか。

そして、このTadakuma氏と、100年前の日本人移民・只隈與三郎とは関係あるのでしょうか。

残念ながら、ネットで調べる範囲では、わかりませんでした。(誰か現地で調べてほしい)


半分が死んだ厳しい移民事情


ダバオの日本人移民の始まりは、1906(明治39)年です。

当時フィリピンはアメリカ領でした。マニラの暑さにまいったアメリカ人は、高原都市バギオを避暑地にすべく、マニラからバギオまで45マイル(約72キロ)の道路(ベンゲット道路)を引こうとします。

最初はフィリピン人と中国人の工夫に土木工事をやらせたのですが、うまくいきません。

そこで、アメリカ人の工事主任が、かつてカリフォルニアで日本人工夫がよく働いたことを思い出し、移民会社を通じて日本人を呼び寄せます。それが1903年です。

道路は1905年に完成しますが、日本人の多数が難工事の犠牲になりました。


この難工事ベンゲット道路は、4年の歳月と600萬比の巨費を投じて、1905(明治38)年1月に完成した。工事主任ケノン少佐の名を記念してケノン道路と命名された。この工事に携わった日本人労働者は約1,500名、実にその約半数の700名ほどが、工事の犠牲、病気などにより命を落とした。(丹野上掲論文)


しかも、工事終了とともに日本人の多くは失業し、マニラから帰国する旅費すらなかったのです。

そこで、1906年から、残った日本人たちは、当時、蛮族が住んでいて、アメリカ人、フィリピン人ですら近づかなかったミンダナオ島のダバオに移り、この地を開拓し、苦労のすえに、日本人の一大拠点を築くわけです。

彼らは、フィリピンから土地を租借し、工業用ロープなどの原料になったマニラ麻を主に栽培しました。

最盛期、ダバオには、日本人用の学校や病院があり、新聞社も2社ありました。

1941年からの太平洋戦争で、ダバオも日本軍政下となります。そのときは、日本人はアメリカ人だけでなく、フィリピン人も殺しています(だから、日本人はフィリピン人から必ずしも好かれたわけではないでしょう)。

いずれにせよ、ダバオの日本人居住区の繁栄は、1945年の敗戦で「崩壊」します。


このように、戦前、戦中の時期において、ダバオを中心としたフィリピンへの直接投資、移民・殖民はかなりの規模となったが、終戦とともに、すべてが崩壊し、ほとんどのフィリピン在住日本人は日本に引き上げたのである。(丹野上掲論文)


その「崩壊」のとき、只隈一家はどうなったのか、それは、現在のレストラン「Tadakuma」につながるのか、が知りたいところです。

残念ながら今回、そのつながりを確認することができませんでした。

ただ、フィリピンでの日本人移民史を勉強できたのは収穫でした。昔の日本人の苦労とバイタリティがわかりました。

かりにレストラン「タダクマ」と只隈與三郎が関係なくても、ダバオが日本人移民ゆかりの地であることは違いありません。

港湾都市ダバオは、美しい海岸を持ち、現在、世界的に観光地として知られています。茹でたカニやエビを手づかみで豪快に食うシーフードレストランなどが人気です。

タダクマでも、シーフードラーメンが人気のようですね。

私もいつかダバオに行き、日本人移民の苦労をしのびつつ、タダクマで食事したいと思ったのでした。



1p(フィリピンペソ)=2.5円くらい?


この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?