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東北の地より……新海さんへ、『すずめの戸締まり』を観て感じた&考えたこと。

①『すずめの戸締まり』を観て泣いてモヤモヤしてスッキリしたら、もう一度『君の名は。』を観返したくなった話。

 
濃密なものって、テキトーに観ることが私にはできない。だから『君の名は。』は、映画館で観たあと、テレビで初放送されたときには家族と一緒だったこともあり、さらっと横目で眺めていた感じで。で、『すずめの戸締まり』の公開前に放送されたときも、録画だけして(『すずめの戸締まり』の冒頭12分だけ観て)、結局そのままになっていた。

だから、「よし観るぞ!」としっかりと集中して対峙するのは、映画館のとき以来なのだな〜、よく考えると。濃密だから、どかんと集中して観たから、そして(たぶん何より)東日本大震災のあとだったから、何度も観たみたいに、けっこうしっかりと「物語」が私の中に?染み込んでいる感じだったけど……でも実際には、ちゃんと観るのは“ほぼ二度目”だったのだ、今回が。

もう一度見返したくなったのは、昨年末に『すずめの戸締まり』を観たから。
 


『すずめの戸締まり』は、とにかく疲れた。しんどくてしんどくて、涙がどうしたって溢れてきて(ここは仙台。映画館内の雰囲気も、けっこう重かったように私には感じられた。やっぱりハードだよ、あの内容は・・・)、「新海さん、こりゃズルイわ~」って素直に?思った。あの「冒頭12分」をテレビで流したのには意味があったんだな~と。「これは思いっきり“震災”を思い起こさせる作品なので、無理な人は?間違って?観に来ないでね」と、親切だったんだなーとあとからわかった。映画館のホームページにも、当日の入口にも、注意書き?のようなものがあったくらい。

「とりあえず私は1回でいいや」と思った。観終わってみれば、ただただ疲れただけだった。“感動”とかは……なかったと思う。何度も涙が出てしまうので、ものすごく感動したような気になるが……(ほんとにね)、“あれは「反応の涙」だったんだ”と、後日わかった&納得→スッキリした。

そう「反応の涙」。「感動の涙」ではない。
あんなのを見せられてしまったら(“再現”?されたら)(←もちろん、観に行ったのは私)、涙は勝手に、自動的に、溢れ出てしまうのだ。心が動いたからじゃない。ストーリーに感動したからじゃない。自然現象。記憶。条件反射。

だから――私にはあの作品が「いい作品」なのかは、わからない。好きか?と聞かれたら、「別に好きではないかな…」と答えるだろう。
でも、あそこに込められた「尋常じゃないエネルギー」や「覚悟のようなもの」は痛いくらい伝わってくるから、同じ「物語を紡ぐ人間」としてはそここそに、心が動く。感動、のようなものが込み上げる。
そしてもっと時間が経てば(?)、「ものすごく価値のある?作品」みたいなものになるのだろうな~……みたいなことは想像?できたりもする。

でも今は、あの日感じたとおり、「愛を込めて……新海さん、しんどかったしズルかった!」とやっぱり思う。私は『すずめの戸締まり』には、“物語性/物語力”のようなものを感じることができなかった(あと、“オリジナリティー”や“創造性”のようなものも)。


だから――?
『君の名は。』をもう一度、観返したくなった。→観た。→そして思った。

新海さん、やっぱりあれで良かったんだよ! 私たちを救うのは、やっぱり“物語の力”なんだと私は思うよ‼︎


新海さんは「『君の名は。』のあとの2作品は、『君の名は。』でうまくいかなかったことをやり直し続けている」みたいなことを言っていたけど(超ざっくりすぎ?苦笑)、、、こうして今また『君の名は。』を観返してみると(今思うと、あのときはまだ震災後の生々しさに、社会も個人/私も、満ち満ちていたんだな~)、やっぱり……“凄かったんだな”って、むしろ今のほうが?この作品の素晴らしさ(ここに込められた願い、エネルギー、創造力、物語力、etc…)を冷静に?感じ取ることができて、……いや、きっと“未だに感じ取りきれていないのだろう”とさえ思えて、ほんと「この物語、どんだけ練り上げられたんだ?」って驚く。
(ふたりが入れ替わってる時間って、当時感じていたよりずっと短かったんだね。あと、やっぱりあの「入れ替わってる時間軸が同じじゃない(でも全然違う時代とかでもなく、“入れ替わりが起こる前の彼と、一度電車で会えている”っていうのがまた複雑でいい!)」って、すごいわ。)
 

「初期衝動」(って造語なの?)の偉大さ、大切さ。
 

どんなに荒削りでも(『君の名は。』は全然荒削りじゃないけど)、他人に影響されることなく「自分の信じたもの」が純粋に、むき出しに、ものすごい熱量で、「形」になること。「届く」こと。

(圧倒的なものほど、正しく評価?されるには、それだけの「時間」を要するのかもしれない。だけどそういう作品は、きっと「時代」を超えていく。初期衝動×普遍性。その関係性に想いを馳せたくなっちゃうね……)


だから新海さん、私は次は、まったく別の(震災から解き放たれた)物語が観たいな。だって『君の名は。』は、本当は、すでにちゃんと(おそらく新海さんが最初に信じていたとおりに、もしくはそれ以上に)“最高”だったのだから!

もしも伝えられるなら、そんな言葉を、気持ちを、届けたい。



ちなみに……当時の感想(2016-09-23-18:38/秋分のゲートと映画『君の名は。』を観た話。)は、この中に。↓




②せっかくなので記しておきたい、『すずめの戸締まり』感想メモ。

・本当に、しんどかったし、とにかく疲れた。
・観ながらマスクの中で何度も「しんど……(しんどい)」って呟いた。
・靴履いたまま(靴下も)水の中に入るの(歩いていくの)、私には無理。
(ぐちゃぐちゃになるよ? そのあと平気なの? 津波経験者だから、そういうの気にしない設定?←深読み)
・いくら好きでも、相手のブーツとか、履きたくない(私は)。
・体力&運動能力! 靴ないままで⁉︎ とかはもう、突っ込まなくていいか(苦笑)。

・あのサイズ感で「ミミズ」は、ちょっとしっくりこなかった。←NHKの『クローズアップ現代』のインタビュー観て、解決(←ほかにもモヤモヤがいくつか解消)。

・とにかくね、最初、子どもの鈴芽に誰かが近づいてきたときから「あれは大きくなった鈴芽本人だろう……(そうじゃなきゃ、この物語に意味はない。←って私は思うよ)」って思って観てたから(お母さんか草太さんだと思わせたかったのだろうけど。←意図的なものって逆に?バレバレ)、そしてそのとおりの内容だったから、「そうだよね、新海さん」って安心?した。
(ちなみに……だから=夢の中の人に似てた?から、すれ違った草太さんに鈴芽は何かを感じたんでしょう? あと、目覚めたときの蝶々が気になる。←部屋の中なのに?/蝶は「死んだ人が蝶になって会いにくる」とか言うから、あれは両親⁇←父親は謎だけど。見守ってる的な?/どうでもいい?けど、お母さんの服に、千と千尋の“ちひろの服”を思い起こさせられるの私だけ?)

・とは言え「震災」を抜いてしまえば?、実に単純明快な(ただ辿るだけの? しかもそのくだりが長い&繰り返しの)ストーリーに感じられた。
(↑だから「シンプルで、どストレートで、」と書いたのだ。場所の力?が強いから、視覚的に?満たされた?ような気になるのだけれど、ふり返ってみると心には?何も残っていない……みたいな。内容が、無い。……そんな感じ?←うまく説明できない。とにかく「私が思う“物語の力”は、こういうことじゃないよなぁ……」みたいなモヤモヤ。でも、この作品にはたぶんものすごい「価値」?があるとされるのだろう……的なことは感じられるから、さらにモヤモヤ……みたいな? そして、そうして一周してみてやっぱり思うのは、『君の名は。』ではあんなにも練り上げられていた“物語性”、“物語力”、“創造性”、“オリジナリティー”、、、それらは全部、どこにいってしまったんだろう。。。)

・すごく変な言い方だけど……今回の作品は「何の(誰の?)ための映画なのだろう?」と、ちょっと思う。風景を“絵/アニメーションで”記録するため? あの設定の主人公を救うには、いろいろとライトすぎでは? 主人公を被災者にするにしても、あそこまでディープな設定にする必要があったのか? そしてそれを(その説得力?のようなものを)、物語の中で補えて?いたか⁇ 東北の人たち(←とりあえずそう表現するけど)には、通用?しないぜ……と今は思う(映画館では“反応の涙”に忙しすぎて&精神的にしんどすぎて、よくわかっていなかったが)。




――と、ここまで書いて(本当は昨日アップしたかったけど間に合わなかった!)一晩おいて、さらに辿り着いたこと。

「……なるほどね。たぶんこれは、あの日、遠く離れた場所で、そこそこ軽めの?“罪悪感”のようなものを感じ続けた人たちのための『映画』なんだ。その人たちが、『ほら、あんな目に遭った少女でも、恋をして、たった数日で“死ぬのはこわくない”から“彼のいない世界はこわい”に変化して、最後にはあの日の自分を救って、元気に未来を生きていく・・・』ってなったら自分たちが楽に?なるから、『あの日の少女が、今はもう元気に暮らしてる』であってほしいから、それを体感するための、楽に?なるための、映画なんだね」

そう思ったら、すごくすごく納得がいった。

だから「私」=「あの日、そう遠くない場所で、そこそこ重めの?“罪悪感”のようなものを感じ続けてきた人」には、響かなかったのだろう。何かがとても軽すぎて、絵はリアルなのに、主人公の設定?にいまいちリアリティーを感じられなくて、心が動かなかった。
(つまり……たぶん、“鈴芽を(本気で)救うための映画”ではなかったのだ。←そこ勘違いしてると、そりゃ~モヤモヤしますよね)



そしてこれを書き上げる前に、もう一度『クローズアップ現代』を観た。

 
新海さんは、ちゃんと言っていた。

「エンタメとしてうまく機能すれば、あの頃無関係だった多くの人が、映画を観ている最中に鈴芽になることができたんじゃないかという気がして……」


エンタメ。エンタメ。エンターテインメント。
その力。

(世界には、“無関係だった人”のほうが明らかに多い。だから、その人たちに響けば、それこそがエンタメ???)

(そもそも「共感“させる”」って考え方が、なんか……?   「共感」って、結果的に“してしまう”ものであって、それを“させよう”というのはとっても洗脳的というか……なかなかこわい?考え方じゃない??? →やっぱり私には「エンタメ」ってよくわからないや)


いろんな人がいる。
私はここ仙台で(そこそこ?近い場所で)、でも無事で、家族も友人・知人も、誰も亡くしていなくて、「経験した人」と「経験してない人」のグラデーションの中にいる。
(番組の中で、いろんな人の声が取り上げられていたこと、とても良かったと思う)


そしてこれは「あの頃無関係だった多くの人」のための映画。
(鈴芽を救うつもりなんて、そもそもどこにもなかったのだ。……そうだよね、これは「鈴芽を救う物語」などではなく、「鈴芽救っていく、冒険活劇!」なんだもんね)

本人の口から聞けて、あらためてスッキリ!!!

 
(追記&余談だけど、新海さんって水瓶座らしいんだけど→1973年2月9日、このエンタメの話、ものすごく水瓶座っぽいなーと思って聞いてたわ。/……その他、まだまだいろいろ思うことあるけど……東北の人間として? でもあの『クローズアップ現代』のお父さんのコメントに全部あらわれていると思うから……。←私が語れることじゃない&あのコメントを新海さんに届けられたこと、本当に良かったと思う。……そりゃ怖いはずだよ、新海さん!!!/未来で、or世界で?、いつかどんなに高く評価されたとしても、私はこれは、やっぱり何かが違う……一番傷つけるべきじゃない人たちを、切り捨てた&利用?した……みたいな気が、どうしたってしてしまう……かな。。。/←ってこれじゃあ言葉足らずか。「傷つける可能性をわかってて、わり切って←その人たちを、“エンタメ”をやり抜く覚悟をしたこと……(自分の後ろめたさを消すために? 社会の共感性を育むために?)、どんなにそんなつもりじゃないってわかっていても、やっぱり私たち(の無意識)は“わり切られたこと”を感じ取るし、なんだかモヤモヤするし、なのにいっぱい涙が出るから感動したみたいに自分もまわりも?勘違いしやすいし。……そりゃ東北に来るのはさぞかし怖かっただろうけど、覚悟の上だろうし、良かったね、やれて。人間、自分のやれること、信じることをやるしかないよね。でも私は、今回は、やっぱり何かが違うと思う」かな。←長い!苦笑)



おかげで私は「自分の考える/信じている『物語の力』」というものに想いを馳せることができたし、自分のやりたいことが「どんなに難しくても、やっぱり私は“世界でただひとりのあなた”のための物語を紡ぎたいんだ!!!」と再確認することができた。



新海さーん、私もがんばるよ!
今回も、刺激を、エネルギーを、ありがとう!!!





 
……と書き上げて、アップして、“スッキリ”したはずだった。なのに読み返すたびにいろいろ追記したくなっちゃって(ご覧のとおり↑)、ぐるぐる思考が止まらない・・・

なので!

③スッキリしたはずなのに、ぐるぐる思考が止まらない……ので、もう少し追記しながら考える&感じてみるメモ。

 
・“鈴芽を救うつもりなんて、そもそもどこにもなかったのだ。……そうだよね、これは「鈴芽を救う物語」などではなく、「鈴芽救っていく、冒険活劇!」なんだもんね”と書いた。だけどこの“救う”という発想自体が、違うのかもしれない→違うのだろう。あくまでも?→「鈴芽が扉を締めていく、冒険活劇!」であって、その結果、あの日の自分を救う?ことになり……(自分を救うために扉を締めていったわけではないもんな……。でも、彼のことは助けたかっただろうから、やっぱり「鈴芽が救う物語」でもいいのか? いや、「助けたい」と「救いたい」は違うよな……。エトセトラ、エトセトラ)、とにかく、新海さんの頭の中には「救う(救える)」という発想?はなかったのだと思う。
(『クローズアップ現代』のインタビューの中でも「災害に関していえば、寄り添うとか、励ますとか、慰めるということが作品でできるとは思っていないんです。でも、できると思っているのは、やりたいと思っているのは「共感させる」ということはできると思うんです。感情移入してもらうということはできると思うので。」と言っていた)

(1/25追記→上記の「この“救う”という発想自体が、違うのかもしれない→違うのだろう。」について。“被災者は救われなくてはいけない”みたいな考えが、私の中にあるのかもしれない。それってある意味、逆差別。もしくは、私自身が“救われたい”から、それを求めてしまうのかもね、『物語』というものに。……とか、やっぱりまだまだ考えちゃうなぁ……苦笑)

・「寄り添うとか、励ますとか、慰めるということが作品でできるとは思っていない」のに、この設定(主人公が被災者)を利用?して「共感させるため(だけ?)の映画」を作ったのか? それで人の心を、本当の意味で動かすことなどできるのか?(“本当の意味で”って何?苦笑/←よく使いがち)
→誰もそこまで深刻に?考えていない??? だって「エンタメ作品」だから?(そんなことないよね)→やっぱり&本当に、私には「エンタメ」ってよくわからないや。
(だからこそ、こういうエグい?話こそ、もっと新海さんに聞いてみたいわ。/舞台挨拶のときの質疑応答では、映画を観終わったばかりである種のショック状態だったし(←そう、あれはまさに「ショック状態」だったよ、私たち!  しかも無自覚に)、こんなふうに思考できるほど時間も経ってなかったし(私は舞台挨拶目的の?リピート客じゃなかったし)、なによりたくさん涙が出ちゃったから感動したような気になってたし(苦笑)。せっかくの「東北での質疑応答」だったのに、質問する人はみんな“ファンとか信者?”だったし(わざわざ東京から来たファンとかね)、そもそも舞台挨拶つきの上映回に来るような人は(新海さんも言ってたとおり好意的で)、私が今考えているようなことは質問するわけない……?もんね。(でもさー、新海さん自身は、もっと突っ込んだこと?聞かれてえぐられたかったんじゃないの??笑)→とにかくどんなふうに答える&応えるのか、聞いてみたかったな。

・「あの頃無関係だった多くの人を共感させるための映画」なのだとしたら、もっと別の物語/主人公にすべきだったのでは?(ex. 主人公が仲良くなった友だちが被災者だった、とか。でも「主人公が本人=被災者」であることが一番共感させやすいもんね、「あの頃無関係だった人たち」には。それ以上のリアルな感触を知ってる人には何かが薄っぺらく感じられようと、知らない人たちには“ちょうどいい”のかもしれない)
→1/25追記。でも、経験した人もしなかった人も、観たいのかな? こういう「震災をエンタメにした作品」って。これを観て本当に「感動」とかするのかな?(みんな?してるみたいだけど。それって「感動」した気に?なってるだけじゃなく⁇ ←新海ブランド&新海マジックによって)/もしも私が東京とかに住んでたら、こんなふうにモヤモヤ&ぐるぐるすることなく「こりゃ〜素晴らしい作品だ!!!涙」とか思えたのかな? たぶん……思えていないだろう。だから結局、あの日の「場所」とか「経験」は、関係ないのかもしれない……。
 

・被災者だった人/人たちに、取材とかしたのかな?

・取材しておいて、「寄り添うとか、励ますとか、慰めるということが作品でできるとは思っていない」「主人公を被災者にした」「共感させるための映画」を作ったのかな?

・もしくは、誰にも取材せずに、情報(被災した人のブログとか?)と想像力だけで、「主人公を被災者にした」のかな?

(↑最後のこれなんじゃない?って思うんだけど、どうなんだろう。本物の?生身の「鈴芽(たち)」の顔を見て、声を聴く、ということを“実際に”していたのなら、、、私はもっと映画の中の「鈴芽」というキャラクターに(特に過去のシーンに……かな?)、“リアル”を感じられたのではないだろうか? そして新海さんは「東北の人たちを前にする」のが、もう少し「怖く」なかったんじゃないか?って思うのだけど。。。でも実際に「鈴芽(たち)」に出会っていたら、やっぱりこういう感じで“割り切った&振り切った”「エンタメ作品」は作れなかったんじゃない――?/もう少し違う物語になってたんじゃない――??/だから生の「鈴芽(たち)」の声は聞いていないんじゃない――???って感じるのだけど、どうだろう。。。)


……って、考えてもわからないことばかり。

(しかもまた追記してしまった。←1/24 これはもう本当に、本人の口から語られない限り「私のぐるぐる」は収まらないですね。苦笑)

(そして私は一回観たきりだから、こうしていろいろ考えたあとで冷静に?もう一度観たら、感じ方も違うのかもしれないけど。……でも今は、やっぱり「ひとまず私はこの作品は、一回でいいな」だな)



あんなにも東北の人たちを前にすることに「怖さ」を感じていた新海さん……(それは「東北の人たち」のための映画ではないから?)。それでも、この作品を作りたくて→作って、、、、、、、で、「あなたの後ろめたさのようなものは、少しは小さくなりましたか?」と問いたい。

あんなにも「怖さ」を感じるということは、むしろ前より/新たな?「後ろめたさのようなもの」を抱えることになったのでは?


 
そして世の中、

誰かの心に触れたいと思って、触れようと思って、動かしたいと思って映画を作るとき、どうしても暴力性みたいなものも帯びるので、「何でこんなものを作るんですか」という人だってどこかにいて…、そういう人とは直接話すことができないのかもしれないのですけれども。どういうふうに感じたかということを教えてもらえたら。勝手なお願いですけれども、ぜひ映画を見ていただいて、感想が聞ければ、これ以上の幸せはないと思っています

映画「すずめの戸締まり」 新海誠監督が東日本大震災を描いたわけは…

 
って、「感想を聞かせてください」って、よく聞く/目にするけど、多くの場合、その窓口は明記されてはいないのだ。




新海さーーーん、書いてみたよ。

きっと届かないと思うけど……(まったくね/苦笑)、ここまで考え&感じ続けてみて思うのは、やっぱり

「私は次は、まったく別の、“震災から解き放たれた”物語が観たいな!」

かな。


とにかく、こうして作品を作れること(仕事として)、しかも何度も“作品として”やり直すことができている(させてもらえてる)こと、仲間がいること、サポート?してくれる人がいること(スポンサーとかもね、ほんとにね)、発表する場が用意?されていること(用意できること)、ファンや信者たち(?笑)がリピートしまくって盛り上げ続けてくれること(盛り上げるための仕掛け?ができること)、そして――放出した情熱・エネルギー、捧げた時間などなどが、この世界を循環し「お金や機会や未来?」になって戻ってくること、、、、、etc.
ここから垣間見えること全部、うらやましい限りです!!!




……というわけで、1月23日。すっかり長くなったので分割しようかとも考えたけど、この流れそのまま&丸ごとを記録したいので、タイトルを変えて、またまた更新してみます♪(←いったい何度目よ?苦笑)
 

お?

 
世界からは、どんな声が聞こえてくるのでしょうね(きっと価値ある作品として“高評価”されるんだろうな〜)。




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映画感想文

“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆